いるものいらないもの


 その男の目の前には箱が二つあった。
かなり大きいそれには、汚い字でそれぞれに『いるもの』『いらないもの』と書かれている。
 男に文字を教えたのはそう言えば自分だったが、読むのはともかく書くほうはいつまで経ってもなかなか上達しなかった。
 そんなことを思いながら、二つの箱の前で腕組みした男を見つめる。
かなり近くから見ているのに何のリアクションもないことから、男からはどうやらこちらの姿は見えていないようだと解り少々ほっとした。
 目が合えばそれだけで喧嘩になる自分たちだ。大事な作業を中断させるのは忍びない。
 男は無表情に腰のものをゆっくり外して、『いるもの』の箱にぽい、と投げた。

(だろうな)

1本は、初めて男に会った日からずっとその隣にあった見慣れた白い刀。
次の1本は赤い刀。旅のはじまりに手に入れた。
最後の1本は見たことがない。しばらく会わないうちに入れ替わりがあったのかもしれない。
 長い三本の刀は箱の中にすうっと消えていき、男はそれから自分の胸に手首をずぼりと突っ込んだ。
 しばらく掻き回して出てきたのは『命』と書かれた肉の塊だ。
鮮血の滴るそれは恐らく男の心臓だろう。思わず眉を顰めたが男は当然気づくことなく、手の中のものを乱雑に『いらないもの』の箱へ入れた。

(アァそうだ、てめェは確かに『とうに捨てた』と言っていた)

胸にぽかりと空いた洞は暗く奥が見えぬ。
感情の浮かばぬ顔には痛みの影すら見えぬ。

(痛ェ)

どうやら痛みは見ている側に来るようだ。やたらと胸が痛いのはそのせいに違いない。
 男は次に緑色の頭髪に手をやり、先ほどと同様に中から何かを取り出した。
今度のそれには形と色がなく、僅かに丸まった掌が作る小さな隙間にただ『野望』の2文字だけが浮かんでいる。
 文字は『いるもの』へすうっと吸い込まれ、同時にぱたんと蓋が降りて、二つの箱はぴったりと閉じられた。

(え)

そんだけか。
てめェの中にあるもんはそんだけか。

驚きながら、そう考える自分にもっと驚いた。








 とかいうような夢を見て、当然サンジの目覚めはサイアクだった。
昼食を終えて次の仕込みまでのほんのちょっとの間にとった仮眠だったが、あの男の夢を見るのは久しぶりだ。
大陸に居る鷹の目を追うためにゾロが船を下りてからもうすぐ1年。
健闘を祈りながらクルー全員で盛大に送り出して、それきりゾロの消息は途絶えてしまった。
 待つことをゾロは望まなかったから、船はぐんぐん海を往き、多分もうあの迷子が追いつくことはないだろう。

(なんでいまさらゾロの夢なんか…しかもありゃあ何だ)

詳しいシチュエーションは既に忘れてしまったが、ひどくグロテスクな映像だけが頭に残っている。
 生きたまま、己の胸を裂く男。
しかしおぼろげな記憶を辿ればそれは見たままの事実としてサンジの中にあった。
サンジがロロノア・ゾロという剣士を初めて『特別な個』として認識した、因縁の相手である鷹の目との最初の邂逅。
 そうだ、あれこそ自傷に近い。

(だったら別に、ビビることもねェか)
「…って俺ァあんなのにビビったワケじゃねェけどな!」

がはは!と今は無人のラウンジで豪快にそっくり返ったサンジの目に、あの日から航海士が壁に下げるようになった小さな日めくりが目に入った。
 自分同様、剣士とはそこまで仲が良かったとはお世辞にも言えない彼女が大判のカレンダーを外したのは、その時点ですら長期になると思われたゾロの不在を意識したくなかったからだろう。
 日めくりは毎朝ナミの手で一枚ずつむしられる。
今朝に限って舌打ちとともにそれが行われたのはきっと―――

「クソ剣士め。ナマイキに誕生日なんか迎えやがって」

では己が見た夢は、無意識に今日という日を自覚してのことなのだろう。
虫の知らせなどであって溜まるものか、とサンジは首をぶんぶん振って、いまだ夢うつつっぽい意識を現実に引き戻そうとした。
 胸ポケットに手を伸ばして、この1年でめっきり本数の増えた煙草をまた1本消費する。
ヘビースモーカーだったサンジの喫煙が少々おとなしくなり、それから以前より遥かに、超のつくヘビーさにまで進化してしまったのはゾロのせいだ。

『口寂しいんだろ、ガキ』

同い年のくせして偉そうな台詞を吐き、煙がうぜえとサンジの指から煙草を取り上げて、代わりにと自分の唇を押し当てた。
 飴玉じゃねェんだから、と思いながらもそれにハマったのはひとえにサンジが迂闊だったからに他ならない。
 煙草なんかより、恋人とのキスのほうがずっとイイに決まってる。
ゆっくり味わうように根元まできっちり吸い終えて、サンジはさて、とイスから身を起こした。
 主賓がいなくても今日が宴会になることは間違いない。この船唯一のコックとしてめいっぱい働かなければ。
今夜はアイツが知ったら「ふざけるな」と青筋を立てるくらい、ヤツの好物で埋め尽くしたご馳走を作って、そんでもって甲板で飲んだくれよう。
 そう決めて気に入りのエプロンをつけた途端に、物凄い勢いでドアが開いた。来訪者は決まってる。そろそろ小腹をすかせた大喰らいの船長だ。
お決まりの行動に肩を竦めつつ、

「オヤツはまだだクソゴム。晩飯は豪勢にしてやっからちっとばかり」
「待てねぇな。腹が減って死にそうだ」

とんでもない発言と懐かしい声にハッと反射的に振り返った先で。
消息不明の剣士がズタボロな格好でニッと唇の端っこを上げていた。








「時間はそりゃかかるだろうと思ったけど、まさか当日になるなんて」

アンタの迷子っぷりをナメてたわ、としこたま飲んでご機嫌な航海士が笑う。
その隣では腹部を樽よりも大きくした船長がひっくり返っていて、その足元には同じく満腹で寝入ってしまった船医と深酒に酔いつぶれた狙撃手が折り重なっている。
考古学者はくすくすと笑いながらスローペースでワイングラスを傾け、昨日までぽかりと空いていた空間にはどっしり腰を据えて瓶に直接口をつける剣士の姿。
この1年が嘘のように、まるで時計を戻したように当たり前だった風景でただひとつ違ったことは。
ようやくの帰還を果たした剣士が、その膝の上に痩身のコックをちょこんと乗せていることくらいだろうか。
太い腕をスーツの腰に回し逃げられないようがっちりと固めている。

「別に迷ってねぇ」
「ハイハイ、迷ってることにも気づいてなかったってワケね」

呆れたように揶揄するナミもロビンも、目前の奇矯に動ぜず平然と杯を重ねているのがサンジには不思議でしょうがなかった。
 腹が減った、と苦しいくらいに抱きしめられたのはついさっき。
甲板で寛いでいたクルーたちにはわき目も振らず、まっすぐラウンジを目指したゾロは、サンジを見て初めてその口を開いたのだという。
 何が起こったのかも解らず情けなくアワアワもがいていたサンジをよそに、ゾロを追うようにラウンジに集まったクルーたちはバシバシとゾロの背中を叩き、彼の無事を喜んだ。
 最後にラウンジに現れたルフィは腕組みして「おかえり!」と満面の笑顔を見せ、

「ただいま」

ゾロはサンジを抱いたまま、またニッと笑ってそれに返した。
 それからずっと、片時もコックさんの傍を離れようとしない。
狭い船だから二人がそーいう関係だったのは、口にせずとも誰しもが気づいていたし、気づかれてることにサンジですら気がついてはいた。
しかし流石に、人前でお膝に抱っこ、なんて甘ったるいコトなぞ過去一回でもされた覚えはない。
冷やかされないだけマシだったかもしれないが、幾らなんでもこの態勢はあんまりなんじゃねェか、とサンジは身の置きどころがなくてイッパイイッパイだ。
しかし久しぶりに戻ってきた男はサンジが蹴ろうが暴れようがお構いなしで、しまいには「見られンのがイヤなら今すぐどっかに篭ってもイイ」と際どい脅迫までされては仕方がない。昼日中から壁一枚隔てた場所で喘がされる趣味はサンジにはないのだから。

(にしてもキャラが変わりすぎだろうがよ)

前々から何事においても堂々としたところのある男だったが、ここまでベタつくような関係ではなかった筈だ。
 そう思いつつも、久々に会った恋人を邪険に出来るほどサンジも悟りきった人間ではない。
サンジには確信があって、それは体を繋げたが故の身勝手な直感に近かったが、『もしもゾロに何かあったらどんなに離れていても解るはず』だとずっと思ってきた。
それくらい惚れきってる自信があるし、決していいとは言えない夢を見て不安を感じなかったかといえば嘘になる。
 どこにいるのかも解らなかった相手が、今は互いの体温を感じ取れるほど近くにいることがどれだけ幸福かなんて、口に出すまでもない。
 そんな風に、何のことはない顔では嫌がるフリをしつつも内心満更でもなかったサンジだったが。

「いつまで居られるの?」

ナミの問いにさらっと「明日発つ」と答えられて、膝の上に乗ったまま「はぁ?」と間抜けな声を出した。







 本当なら鷹の目を倒して大剣豪になるまで、船に帰ってくるつもりはなかったのだという。今度こそ最初から彼の黒刀を抜かせたし、刃を交えて、ぎりぎり互角の手応えすら感じたそうだ。
 しかし戦いは中途で海軍の横槍が入り、決着のつかぬまま勝負は次に持ち越された。
 混乱の中で指定された再戦の場所へその後すぐさま赴こうとしたゾロだったが、生来の迷子癖が災いしてそれきり鷹の目には会えずじまいだと、ゾロは言いにくそうにサンジに告げた。

「そんで明日にゃ、また出かけるってのか」
「おう」

夫婦喧嘩のとばっちりを避けた女性陣はさっさと女部屋に引っ込んで、今は二人、かつて何度もシケ込んだ格納庫で向かい合わせに会話をちまちまと交わしている。
 よくよく聞いてみたらゾロは戻ってきたわけではなくて立ち寄っただけだったのだ。1年ほぼほったらかしにされていたサンジが多少、いやかなり憤ってもしょうがないだろう。
 気まずい雰囲気が漂う中、サンジははーあ、とこれ見よがしにため息をついて見せた。

「てめェがそーいう野郎だってなァ嫌ってほど解っちゃいたが、だったらぬか喜びさせてねェで、きっちりカタつけてからでも良かったんじゃねぇか」
「や、俺もそう思ってたんだが、ナミがなぁ」
「ナミさん?」
「二ヶ月くれぇ前だったか。俺の居場所を突き止めて」

意地を張ってないで誕生日プレゼントくらい取りにいらっしゃい、と手紙を寄越したのだという。

「意地…意地で戻ってこなかったってのかてめェは!」
「だってカッコ悪ぃだろ。でもまぁ、くれるっつーもんは貰おうかって」
「なんつー自分勝手な野郎だ…」

ぬけぬけとほざかれて一気に肩の力が抜けたサンジの片手をゾロは図々しく引き寄せた。先ほどと同様に膝の上に座らせて、気分を害したっぽいコックの機嫌をなだめようと努めて明るい声を出してみる。

「おら誕生日だぞ。サービスしろサービス」
「…ナミさんが呼んだから帰ってきただけなんだろ。プレゼントが欲しいならナミさんから貰えボケ」
「ナミが俺にくれるっつったのはコック独占権だ」
「あぁ!?」
「さっさと寄越せ。時間が勿体ねぇ」

シャツの下に滑り込ませた手の平をもぞもぞ這わせて、白い耳たぶに噛み付きながらゾロが言う。

「あー堪んねぇなこの感触」
「…っの、クソ、ったれ、がッ」
「感度も相変わらずだ」
「ばっ…あ、あんま強く、っつか、てめェは、」
「うん?」
「別に、ほんとは、俺ンことなんか」

欲しがっちゃいねェくせに、と切れ切れに呟かれてゾロは眉根を寄せた。

「そらどういう意味だ。こっちはとっくにスゲーことになってんぞ」

ぐい、と尻のあたりに硬くなったものを押し付けられて、ついでにベルトを外されてしまう。当たり前のように前を弄られてムカつくのに、ロクな抵抗も出来ないのが情けない。
 ヤベェなし崩しだ、と思いながらサンジは結局ゾロが何をしても許してしまうような気がした。

(コイツん中には、俺なんかこれっぱかしも入るスキがねェってのに)

暗示的な夢をまた思い出す。
ゾロの根幹を作るものは剣であって野望であり、それ以外の全ては彼にとってはどうでもいいものでしかないのだ。
 それなのに、

(そーいうヤツだからこそ、多分俺ァ)

ほんのちょっと寄り道させて、我侭を言わせたくなる。
 強欲なようでいて、己の道に必要なもの以外にはまるきり無欲な、可哀想なこの男に。








 翌朝ゾロを迎えに来たのは、昨日ここまで彼を送り届けてくれた二人組の賞金稼ぎだった。ゾロを兄貴分として崇めている彼らは、ゾロ自身が海賊に堕ちた今も、なんだかんだといいながら世話を焼いてくれているようだ。

「次はちゃんと戻って来いよー」

のほほん、と声をかける船長にこくりとゾロは頷く。
 ゾロがこの時期にひとまずの帰還を果たすことは、サンジ以外の全員が納得していたことらしい。

「もし帰ってこれなかったらガッカリさせちゃうし、いっそビックリさせてあげようと思ったんだけど、逆効果だったかしら」

申し訳なさそうな顔でサンジに侘びてきたナミに、サンジは素直に「嬉しかったよ」と答え、それから、またしばらく離れてしまう恋人をじっと見つめる。
 落ち着いてゾロの姿を見てみれば腰の三刀は夢の通り、黒柄の一本が見知らぬそれに変わっていた。
尋ねると近くの島に砥ぎに出してきたという。
(どっかで繋がってる)と感じていたのはあながち自惚れでもなさそうだ。

「んじゃ行ってくる」

下手したらこれが今生の別れになるかもしれないのに、ゾロはちょっと散歩に出かけてくるような調子でニッと笑う。
 その顔を見て、あーまた煙草が増えそうだ、とサンジはこっそり嘆息した。




END


奥さんのところでひとやすみ。(2005.01.11)

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