フロアに向かない男


 そのどこか不思議な客を、サンジはひそかに「セクハラ野郎」と呼んでいる。







 午後の一番暑い時間帯に、直射日光のビシバシ当たる場所を選んで座る客なんてのは、それだけで変わっている。
 そして一際異彩を放つ目の覚めるようなグリーンの短髪にどうみても良く言えば体育系、ぶっちゃけソッチ系としか言いようのない見事な体躯とやたら鋭い眼光は、それ以上に人目を惹いた。
 いい意味でも、悪い意味でも。
なにせこの店のターゲットは妙齢の女性客。平日の昼日中、イイ年した若い男が一人で訪れるような店ではないのだ。

(間違ってもテメェみてェなのが来るトコじゃねーだろセクハラ野郎が)

そう思いつつ今日も営業スマイルを貼り付けた顔で水とメニューを差し出すサンジである。
 男なんぞに笑ってやる趣味はないが、次が見つかるまでの繋ぎとは言えこれがサンジの仕事なので仕方ない。

「マンデリン」
「…カシコマリマシタ」

首ごと動かしてサンジを見上げた男の口が小さく開き、サンジは軽く頭を下げるとさっさとテーブルを後にした。
 ほんの少し言葉に棘が篭ったのには目を瞑って欲しい。
なんせこの客はちょっぴりフツーじゃないのだ。

(クソ、今日もだ)

チッと小さく舌打ちしながらカウンターにMDとだけ書き込まれた伝票を投げ出して、サンジは少々乱暴にサイフォンをセットした。

(今日もこんだけかよ)

この客がメニューをろくすっぽ見もしないのはいつものこと。
 彼のオーダーはいつだってマンデリン一偏等で、夜はレストラン昼はカフェに転じるこの店のウリであるきらびやかにデコレートされた洋菓子には目もくれない。
 ある一点とともに、それがサンジには不満だった。何せこの店で出す焼き菓子水菓子、それら全ては彼ご自慢のお手製なのであるからして。
 元々サンジはギャルソンとしてこの店に入ったわけではない。小さな店で人手が足りないから、ランチタイムからディナーに移行するまでの僅かな時間フロアに出ているというだけで、本業は立派なコックなのである。
 まだ任されているのはデザートだけの一番の新入りで、コッチはしばらくいーからフロア出ろとか言われちゃうくらいのペーペーであるにせよ。

(コーヒーだって…まァ俺が淹れンだからめっちゃ美味ェけどよ…)

 沸騰したフラスコの中に専用の漏斗を差し込む。
お湯を含んでふわりと粉が膨らみ、深煎りの濃厚なコーヒーの香りが店内に漂いはじめると、目を瞑ったまま腕組みなんぞしてた男の細い眉が僅かに上がった。
 ああ好きなんだな、と思う。
マンデリンは苦味が強いがコクがあって、ブレンドにアクセントとして混ぜるくらい個性のはっきりした豆だ。初見でこれを注文するということはかなりなコーヒー党なんだろうと、男から初めてオーダーを取ったときサンジは感嘆交じりに推測した。
 オーナーの趣味で豆の種類こそ取り揃えているものの、ここしばらくの客には酸味が強く軽いものばかりが好まれている。アフタヌーンセットとして出るのもほとんどがブレンドかラテに紅茶。
 話題性や流行に捕らわれないオーダーは本当ならそれだけで好感が持てるところなのだが、作るほうとしては、だからこそそれに見合うものを添えてやりたい。
 というか、食べさせたい。「こりゃ美味い」と唸らせてやりたい。
なんだか苛々してきてふと煙草が欲しくなったサンジは無意識に胸元へ指を伸ばし、ぺたんこのポケットにむ、と唇を尖らせた。
 嫌煙権のはびこる現在、食客への気配りだってコックの大事な仕事のひとつだ。
そういうわけでフロアにいる時ばかりはヘビースモーカーなサンジも、ボックスを定位置からロッカーへと移し変えている。

(情けねェ)

サンジはこっそり自分のほっぺたをぎゅうと引っ張った。
いつもなら客の前で吸う気など起こらないはずなのに、どういうワケかあの男をみていると口寂しくなる。

(…俺ァやっぱフロアにゃ向かねェなー)

ここに立つようになってから何度も頭の中で繰り返した言葉を、臨時ギャルソンは今日もまた脳内で呟いた。
 まだコックとしてもタマゴなサンジは、不本意ながらついつい客のオーダーに一喜一憂してしまう癖がある。相手は無論メニューにかかれたうちのどれがサンジの作ったものかなんて知りはしないし興味もないというのに、だ。
 当たり前のことなのにどうしても拘ってしまう自分がみみっちくて情けなかった。
勿論ここが嫌いなわけじゃない。客の様子を伺うのは楽しいし、たまにはのんびりするのだって悪くないのだが。
 クラシックな店内に合わせたロング丈のギャルソンエプロンは、懐古趣味なオーナーが誂えた特注だ。
痩せぎすで身長だけはある自分にはそれなりに似合っていると思うけれど、少々大仰で動きにくい。
 可愛い女の子がおしゃべりに興じながら小さなお皿をつついてびっくりした顔になる。
唇が「おいしい」の形に動いてにっこり微笑むと、横目で様子を伺うサンジもつられてにっこりしてしまうけれど、でも。

やっぱり自分の居場所は、ここではないと思うのだ。

 もうもうと上がる湯気、高くあがる炎の上ではフライパンの中身が宙を舞い、ボウルの底にホイッパーがぶつかって上げる耳触りな金属音は慣れると音楽のように耳を打つ。
コックたちが忙しなく立ち働く、穏やかなフロアとは裏腹に緊迫感の漂う煩雑とした厨房にいるときが一番楽しい。
 それにずっとあそこにいればこんな風に、…ただ一人の客に心を奪われることもなかっただろう。

(マンデリンに合わせるならどっしりした…クラシックショコラじゃくどいな、最高のバターをたっぷり使ったパウンドがいい。甘いものに興味はなさそうだから、糖度は抑えてかわりにブランデーを効かせて)

もし明日も、あの男が来たら。

 勧めてみようか、とふと思った。
そしてすぐにいやいや、と首を振る。
そんな気のある素振りを見せたら、何をされるか判ったもんじゃない。







 サンジは漏斗の中身をくるくる混ぜて抽出を確かめた。アルコールランプを消すと滑るようにコーヒーがフラスコに落ちてくる。
 この作業は目が楽しいから結構好きだ。
どこまでも透明な黒がフラスコを満たし、サンジは満足そうに微笑んだ。
そうして出来上がったコーヒーをカップに移し変え、どうせ今日も使われないだろうスプーンをミルクと共にトレイに乗せ、臨時ギャルソンは姿勢を正してフロアへと向き直る。
―――これからの10秒がガマンのしどころだ。

「お待たせしました」

男はカップを置く手をちらりと見て、それからゆっくり視線を上げた。
 琥珀色の瞳にじっと見つめられて、サンジの心臓がばくん、と鳴る。
動揺を悟られないようにゆっくりと視線を外し、サンジは早足になりかけるのを必死でこらえてカウンターへと戻った。

(―――なんなんだよ畜生…)

何事もなかったかのように黙ってカップを取り上げた男をカウンターから眺めながら、こりゃ絶対セクハラだろ、と心の中で毒づく。
 実際は何をするでもないこの客をサンジが妙に意識してしまうのは、彼の風体とかそんなものではなく、実はこの無遠慮な視線のせいだ。

 サンジが彼に一杯のコーヒーを供するそのとき、必ず男は目を合わせてくる。
そうするとサンジは何故だかどぎまぎして、ありえないことに指先が勝手に震えてしまうのだ。

 そういった目で見られていると思うのは自意識過剰なのだろうか?
けれど偶々目があっただけとは考えられないほど男の視線は強すぎて、サンジを捕らえようとでもするかのように絡みつくのだ。
 値踏みでもしているような眼差しは―――裸にされているような気になっていたたまれない。







 今日は珍しく他に客がいないから、店内にいるのはセクハラ男とサンジだけ。
サイフォンを片付けながら何とはなしに見回したフロアは、強い初夏の日差しに満ちている。

(もう夏かーつかこりゃちょいと季節外れだろ。空調直したほうがいいか)

と現在唯一のお客サマの様子を伺うと、窓際席の男は容赦ない陽光で輪郭だけのシルエットと化していて、サンジはうお、と口の中で呻いた。
 この時期あそこでホットは流石にきつい。
(必要以上に近づきたくねーんだけどなァ)とか思いながら仕事熱心な青年はカフェカーテンを下ろすため再びフロアを横切り、けれど男の前で「失礼致します」とその腕を伸ばした瞬間に、

「閉める必要はねぇぞ」
「…ッ」
「―――眩しいくれぇが丁度いい」
「!」

彼がそう言って目を細めながら見つめたのは窓の外でなく、痩身のギャルソンで。
 片腕を上げたまま動きを止めてしまったサンジに初めてその少々吊りあがり気味の目を綻ばせ、ククッと可笑しそうに笑う。

「お前…」
「え、あ、は、ハイ?」

声が裏返って、しまったカッコ悪ィとサンジは余計焦った。男はなおも笑い続け、

「真っ赤だぞ?見てるだけだ、食いつきゃしねぇよ」
「ンなッ…」

言葉とは裏腹に男の腕が伸び、ウェストで縊ったエプロンの腰紐を強く引かれた。

 唇が触れた瞬間つまさきまで痺れが走ったのは、ヤケになって混ぜすぎたコーヒーが苦かったせいだろうか。

何しやがるセクハラ野郎とか、明日はやっぱりプレートを勧めようとか、俺の前にまずはメシを食わせてみなきゃ、つか惚れっぽすぎんだろ俺、とかいろいろ考えながらうっかり瞼を閉じたりしちゃったりしたサンジは、ドアベルがからんと鳴って、次の客がレジ先で案内を待っているのにも気づかなかった。

 やはりフロアには向いていないようである。

それからしばらくしてすっかりコックに戻ったギャルソンを、一風変わった客がすっかり手に入れるのは、また別のおはなし。




END

  

 (2003/05/04)

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