みがわり


 多分、一生のうちであんなに早く駆けたのは初めてだ。
あんなに惨めな思いをしたのも。







 耳の奥の方で何かがわんわんと鳴っている。
そのせいで頭の中が引き攣れたように痛い。ああこの音は煩い。

(あれが―――ころされる)

走る走る。
藪を越えて、小川を越えて、高木の間を駆け抜けて、それでもまだきつねの泉には遠い。
あそこに行くのにはいつもあっという間なのに、いつもより懸命に地を蹴っているのに、何故今日に限ってこんなにも俺の脚は遅い。

(いそがないと)

 大人たちの足は俺のよりも太くて長いから、多分もう。
あいつらが村を出たのは夜明け前だと言う。だとしたら泉なぞとっくだ。
 親父の牙がきつねの白いのどぶえに突き刺さる場面が勝手に浮かんできて、それがあんまり鮮明で足がもつれかけた。








「言うなと、いわれたの」

 ぬくぬくと部屋で寝扱けていた俺を叩き起こしたのはおせっかいでうるさい幼馴染だ。
だが今日ばかりはくいなのおせっかいに感謝するしかない。
 いつも偉そうに説教ばかりするくいな。つんと澄まして得意げな顔ばかり見せていたそれが、あんな風に苦しげに歪むとは知らなかった。

「でも、あんたのきつねを、皆で殺しに行くなんて」

そんなのはひどい、助けてあげてと泣きそうな顔で俺を急かした、優しい幼馴染。
俺がきつねのところに行くのを、潔癖なお前は嫌がっていただろうに。
 長の子が妖狐に魂を奪われていると噂が立ったのはつい先だって。
俺はそれを知っていたけれど、どうでもいいことだと流れるまま好きにさせていた。
 きつねは気まぐれだが気位が高い。物見遊山で森の奥へと向かうものは全て迷い、泉に辿りつくことも出来ぬのだ。
 あの泉にきつねが俺以外の人間を近づける気はないと俺は知っていたし、どの道俺は誰が止めてもきつねに会いに行くことをやめる気はなかった。
 それが悪かったのか。

「きつねは長老が生まれるずっとずっと前に一度、私たちの村に来たんだって」

きつねの分かれた尾はそれだけ長い年月を過ごしてきた証。俺はきつねの年を聞いたことはないが、多分長老などよりずっと長い時を生きているはずだ。

「人を探していたのだそうよ。若い虎人の牡を」

しかしきつねの探し人はここには居なかったらしい。
 さんざ探してそれでも見つからず、とうとう諦めて帰ろうとした狐人を、

「そのとき村で一番強かった牡が、欲しがったのですって」

きつねの蒼い瞳と金色の毛並みがとてもきれいだったから。
 虎人は獣とヒトの血が混ざった種の中でも特に強い。興が乗れば気紛れに他の村から只人を、そして異種族を攫うこともある。―――狐人もまたしかり。
 場に居合わせた全て、そのきつねが牡の所有物になると疑いもしなかった。
従属させるために飛び掛った虎がその全身から赤い血潮を噴き上げるまで。
 類稀な妖術を使うあやかしのきつね。ただの狐人に見えたその生き物がどんなわざを使い彼を屠ったのかは誰にも解らなかったそうだ。

『森の奥に泉があると聞いた。時が来るまでそこを俺の住処としよう』

目の前でただの肉塊と化した牡虎には目もくれず、血塗れのきつねは低い声でそう宣言し、

『…命が惜しくば近寄らぬが良い、か弱い虎ども』

それから煙のように掻き消えたと言う。

「それからきつねはずっと森の奥にいたけれど、村の者に悪さをすることはなかったから」

 それは既に御伽噺のように思われていた昔のこと。
けれどあやかしのきつねは、今になってゾロに目をつけた。
 ただの若虎とは違う。長の子だ。
さてはきつねの狙いはそれであったかと、村は総出で泉に向かったようだ。
―――きつねを退治するために。
 虎人は強い。
幾らあれが他の獣人にないあやかしのちからを持っていても、多勢に無勢。

(死ぬな)

俺のきつねが、ころされてしまう。






「…きつね!」

やがて息を切らして駆けつけた泉には。
いつか俺の村の者たちが見たであろう―――血塗れの、きつねの化身。

(嘘―――だ)

泉のほとり、低い草叢の上に静かに横たわるきつねの瞳は固く閉じられていて、水底のような深い青がさっぱり見えないのがもどかしい。
 普段着ている白い襦袢は真新しい鮮血で赤く染め上げられていて、俺は体中から己の力が根こそぎ奪われていくのが解った。
 四足の姿からヒトのそれに変化して、恐る恐るきつねに近づく。
きつねは細い四肢を投げ出して、ただそこにある。
時に苛々させられた、きつねに会うための儀式めいた遊びがないことがこんなに辛いものだとは思わなかった。

「きつね」

俺はがくりとその場に膝をつき、震える指で動かないきつねの頬を触る。
 ガキの俺よりずっと温度の低いきつねの体はいつもよりもずっと冷たくて、俺は心の臓が搾り取られるように痛くなった。
 目の玉のうしろがかっと熱くなり、お湯のようなものがだらだらとそこから溢れて、頬をぬらす。
俺の、俺のきつねが。

「…サンジ…ッ」
「―――その名で呼ぶな、と言っただろう」
「!」

耳に心地よい掠れた声。
ぴくりとも動かなかったきつねの瞼が、半分だけ開けられていた。

「死んでるとでも、思ったか?」

ニヤリとかすかに唇の端を歪めるきつねの視線は、だが俺を捉えずに宙空をじっと見つめている。

「麓から殺気を撒き散らして近づいて、俺に解らない訳がねェだろうに。…迂闊な虎どもだ」
「お前、無事、なのか…?」
「たりめーだ。あんな奴らじゃ俺に触れることも出来ねェさ」

たが術を使いすぎた、しばらく動けそうにねェと忌々しそうにきつねが舌打ちした。
 俺はそれでハッと我に返り、ぺたん、ときつねの横に情けなく尻を落としてしまう。
死んだとばかり思い込んでいたきつねが生きていて、安心したせいか腰が抜けたらしい。

「は…はは」
「何笑ってやがる。虎の子、俺についてるのはテメェの仲間の血だぞ」
「お前に手を出そうとした報いだ。かまうものか」
「―――一番クソでけェのは、テメェに良く似ていたな。あれはテメェに最も近いものだろう」

恐らく親父だ。親父はこのきつねと対峙したのだろうか。

「他はまやかしで追い払えたが…あれはまっすぐ俺に残ったテメェの匂い目掛けて来ていたからな。少々痛い思いをさせはしたが、命くれェは残ってる」
「殺さなかったのか?」
「殺して欲しかったのか?」

面白そうに問い返しながらそこで初めて、きつねがちらりと俺を見た。
 俺はゆっくり首を振り、加減をしてくれたきつねに「ありがとう」と頭を下げた。それから涙でぐしょぐしょになった顔を拭う。

「昔は眉ひとつ動かさずに虎人を殺したと聞いたから」
「…そんなこともあったっけ。ハッタリ利かせたい年頃だったんだろ」
「俺の親父だと解ったから、助けてくれたのか」
「それもあるな」
「それも?」
「―――アイツの虎の姿に、少し似てた」

目を細めうっとりと呟くようにそう言って、きつねはそっと瞼を閉じた。
 そのきつねの表情は、事後にいつもかいま見せるそれで。
俺はいきなり、がつんと頭を殴られたような気になった。

「俺は…親父の若い頃に瓜二つだと言われている」
「へぇ」
「お前が探していた虎人にも、俺は似ているのか」
「だったらどうする」

きつねに俺のを注ぎ込んだときから。
俺はずっと、(きつねが俺に身を任せるのは何故だろう)と思っていた。
多情な己に厭いて逃げてきたと嘯くくせに、今更こんなガキに足を開くのは何故だ、と。

『人を探していたのだそうよ。若い虎人の牡を』

今朝聞いたばかりのくいなの声が俺の中で響き、同時に何かが繋がる。
 唯一自由に泉に近寄ることのできる自分をどこか誇らしく思っていた俺は、せいぜいバカな子供だった。







―――俺は、身代わりだったのだ。
いまはもういない、きつねのたった一人の。






「不服そうなツラだな、虎の子」

 黙り込んでしまった俺をきつねが薄く哂い、それは俺にたやすく火をつける。
一瞬で身のうちに沸いた憤激と劣情のままに、自分では動けないきつねの体から薄物を剥ぎ取って、白い足を抱えあげた。
 慣らしもせずに突っ込んだ部分はいつもよりもきつく、きつねの襦袢についていたのと同じ赤が、きつねのそこを濡らす。
 俺など歯牙にも掛けぬ妖力をそなえたきつねは、けれど何の抵抗もしなかった。

親父たちを追い払うのに力を使い果たしていたからかもしれない。
気まぐれに弄んだ俺に、少しは詫びる気持ちがあったからかもしれない。

 痛みから僅かに顰められた眉、苦しさから漏らす小さな呻きは俺を煽るものでしかなく、俺は夢中で腰を動かしてきつねの身体に俺を植えつけようとした。
 きゅうきゅう俺を締め付けるくせに、きつねの中はとても柔らかい。すぐにでも逐情したいのを我慢して、きつねがいつも一番よく鳴くところを探して何度も突き上げた。
 そこを俺の出っ張ったところで擦られると堪らないのだとは以前きつねが言った台詞だ。ぴんと尖った耳がふるふると震え、俺との交合に馴染んだきつねはそのうち甘い声をあげるようになり、やがて俺の腰に自ら足を絡めながら白い喉を仰け反らせる。
 それは俺がここに来るまでに何度も思い描いた『親父に食い殺されるきつねの姿』を思い出させ、俺はきつねを激しく穿ちながら、剥き出しになった急所を食い破りたい衝動を抑えるのに必死だった。

 こいつを殺して俺だけのものに出来たらどんなにいいだろう。

 何度も何度も、めちゃくちゃに犯して。
俺はそのうち、きつねを抱きながら泣いている自分に気がついた。
そんな自分がただ悔しくて、情けなくて、それでまた涙が出た。


きつねの言うとおり、俺はほんとうにバカなガキでしかなかったのだ。






 一夜が明けて家へ帰った俺は、僅かばかりの荷物をまとめその足で村を出た。
さんざ森で迷わされたすえ這う這うの体で逃げ帰った村人は、皆一様に『狐につままれた』ような顔をしていて、それが滑稽で笑いをこらえるのに苦労した。さすがに傷だらけの親父の姿には申し訳なさが募ったが。
 どこか遠くへ旅に出るとはくいなにだけ告げた。
俺がここに居ればまた連中はきつねを狙う。
そしてここに居る限り、俺はきつねに会わずには居れないのだ。

 今思えば、あの時俺が感じた怒りは、きつねに対するものではなくただの醜い嫉妬だった。
長い長い間、あの特別なきつねを捕らえつづけていた憎い同族への。
どうして俺は、そいつより先にきつねに出会えなかったのだろう。







 それきりあの泉には行っていない。
きつねは多分、今もただ一人のことを想って暮らしているに違いない。
ああ見えて情の深いあやかしだったから、たまには一時遊んだ虎の子を思い出すこともあるかも知れぬ。

俺がまだ、てんでガキだったころの話だ。

 (2003/04/28)

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