□甘やかな夜



ほしづき

 

 荒い息もそのままに、酷く脱力した躰が崩れ込まないよう、その腕に力を込める。
 この全身が麻痺したようになる甘美な脱力感は、いつもの鍛錬とは違って抗いがたい休息を求めてくる。どんなに辛い対戦でも、どんなにきつい鍛錬でも、ここまで一気に力が抜けることはないというのに。
 しかもここまでの突き抜けた脱力感は、この腕の中にある躰に出逢って初めて知ったものだ。
 今は自分以上に動けなくなっている、しなやかなこの肢体。
 ともすれば抜けようとする力をぐっと筋肉に閉じこめ、上半身が触れるか触れないかの距離に留める肌の感触を追う。
 本当なら、今、力の限り抱きしめたいところだ。
 だが、駄目だと無意識に躰が気持ちを絡め取る。
 今日の昼間は良い天気だった。風が頬をすり抜ける感触が気持ち良いくらいの陽気で。昼食は甲板で食べることになったのは至極当然で。笑い合って準備するその中で、この男は一番機嫌よくこの船のクルーと女性陣の間を飛び回り、美味い食事を振る舞っていた。
 周りに広がる海は深い藍色で、空は果てしなく青く。
 陽光を弾いた海面が眩しくキラキラと輝くのが、眩しかった。
 金色が船上をキラキラ流れるのが、何故かとても嬉しかった。
 -------見ているだけで、楽しかった。
 抱きしめたいと、あの時もなんとなく考えてしまっていた。
 まさか、自分がこんな感情を味わうことができるとは、『思う』どころか『考える』ことすらなかった。
 そんな疑問に、まだまとまりもしない思考が、直感だけで答えを出す。
 当たり前だ、『知らない』ことだったのだから。
「おう、大丈夫か?」
 掠れた低い声が、耳朶をくすぐる。
 崩れ込みはしなかったが、被さるような形で彼の躰を覆うゾロの頭は、細めの首筋に埋めるように存在していたからだ。
「そりゃこっちのセリフだ。大丈夫か?」
 自分の押し殺した声が、目の前に広がる金色の髪を微かに揺らす。
 んっ、と詰めた声が響き、まだ下半身が繋がったままの躰がヒクリと震えた。
「てめっ…耳元で喋るなよ…」
 どこか甘い響きを含んだ声音が抗議する。少しずつ自分の中から去っていく甘い感覚を、惜しいと正直に思いながらゾロは小さく笑った。
「悪いな、余裕がねぇ」
「そんなもんあったら容赦しねぇぞ、コラ」
 軽い仕草で頭をはたかれる。見た目と違って、このサンジという男は随分とタフだ。だからこそ、ゾロは思う様好き勝手ができるのだから文句はない。
「そうだろうがな。ちょっと待て」
 ぐっと腕に力を入れ、抜くために躰を起こそうとすると、長い脚がするりと腰に巻き付いてきた。
「待たねぇ。このままでいい」
 繋がったままの体勢では、サンジの方が辛いはずだ。それに、このままでいるとゾロの方が治まりがつかなくなるのは、経験上の周知の事実。
「あおんな」
「ちゃんと責任はとってやるよ。今はこのままがいい」
 とはいえこのままだと、サンジの腰には多大な負担がかかり続けることになる。また数時間後には忙しく立ち働くことになるであろう、この船のコックにはそれは過剰な負担になるはずだ。しかもこのまま、続いて責任をとってもらえるとなれば、なおさらに。
「なら」
 ゾロは絡みつかせた腰へと片腕を回し、脱力したままのサンジの上体へもう片腕を差し込み、一息に持ち上げた。
「うあっ! …あ…ふ…」
 ずり落ちそうになる前に、とっさにしがみついたサンジが仰け反り小さく悲鳴をあげる。構うことなく、体勢を入れ替えたゾロは、投げ出した自分の脚と腰の上に、サンジを下ろす。
 対面座位。
「これならちったぁ楽だろ」
「…ど…どこが…ふ、ふか…あ…」
 小刻みに震える躰が愛おしい。
 ゾロはやんわりとその躰を抱きしめ、その背をなだめるようにさすった。
「ったく…この剣豪は…どうしてこう…」
 脱力してさらに奥深くにゾロを埋め込み、サンジは目の前の逞しい躰へと脚だけでなく両腕を回す。凹凸が少ない男の胸は、少しの高低差などものともせずに、寄せればぴたりと重なり合う形になる。ゾロに乗り上げている分だけ、自分の方が彼より上になっているが、それはそれで形の良い頭をきっちり抱え込める。
 それを幸せの一つと、いつしか認識していた自分をサンジは褒めてやりたい。
 本来なら、考えもしない出来事だ。
 自分がゾロという男と、こんな幸せを感じるようになるとは。
「締めるな」
「嬉しいくせに」
「当然だ」
「でもまだ動くなよ」
 サンジの腰に回った腕に力がこもる。その優しいとしか言いようのない力の込め方に、サンジの方が照れて頭を落とした。
 抱きしめたら、抱きしめ返してもらえる。この当たり前のようでいて、手に入らないことの方が断然多い幸運に何を言えるというのだろう。この刀を振るうことしか知らない、とんでもない力を持つこの腕が、優しい力を込めてサンジを抱きしめるという事実に。
 そんなことがあり得ることに、サンジはただ俯いて何かに向かって感謝するしか出来ない。
「辛くないか?」
 沈黙をなんととったか、囁くように聞いてくる男の声に、サンジの腕はぎゅっと力を込めてしまう。
「…どこまで甘いんだろうね、このマリモ君は。辛いのか?」
 微かに笑うと、その振動が響いたのかゾロが小さく息を呑んだのが伝わった。
「当たり前だろ、こんな形でお前抱いてて、じっとしてるんだ」
 ほんの少し躰を揺らすようにして即座に反論したゾロに、今度はサンジの方が小さく喘いだ。
「うあっ…バカ動くなって! …まだ、駄目だ」
 あまり躰に力が入らないのだろう。ゾロはそっとサンジが楽になるように、片腕を背後について少しだけ背中を倒す。それだけで、サンジはもたれかかるように体重を預けてきた。
「お前ほんっと、見た目と違うよなぁ。野獣かと思えば律儀だし、粗野で大雑把なくせに肝心な所はいつも押さえてる要領の良さはあるし。…そのくせ、へたれだし」
「誰がヘタレだ。誰が」
 躰に回した方の掌でピシャリと肌を叩けば、サンジが笑う。
「うっせ、ヘタレで十分だ。俺から言わなきゃ、どんなに触りたくても触れないくせに。たまには魔獣らしく、がーっと行ってみようとか思わねーのかよ。待つだけ待って、許可した途端に奪いまくるなんて、調教させた獣みたいなことしてねーで」
 今日の昼間はとても良い天気だった。
 昼食は甲板に決まって、サンジは大忙しだった。そんな自分を、ゾロは見ていた。楽しげに、刀に手をかけた姿で。…どこかとても静かに。
 その刀が、午前中このゴーイングメリー号を襲った海賊の大半の血を吸ったのを、サンジは傍で見て知っていた。
「アホか、いつも行ってみてぇに決まってんだろ。けど、お前はさせないだろうが」
「あ・た・り・ま・え・だ! そんなことした日にゃ、蹴り飛ばしてあの世に送ってやらぁ」
 楽しげにわめくサンジに釣られて笑い、ゾロは微かに目を伏せた。
「しねぇよ。お前がしてもいいって言わねー限り、俺はしねぇ」
 しっとりとした声音がつむぐ言葉は、あっさりとした言い方とは違って深い。それが分かるから、サンジは小さく頷いた。
「ああ、お前はしねぇんだよ。俺はちゃんとそれを知ってる」
 そっと抱いていたゾロの頭をなでる。見た目以上に柔らかい緑の髪を、わざと乱すように。そしてゆっくりと上体を起こし、サンジはゾロを見下ろした。
「安心しろ。お前がやりたいと思う前に、俺がちゃーんとお前を誘ってやる。俺がやりたい時にもな。…それでなくても、だ。お前がやりたいと思った時にはちゃんと言え。俺は…まあ、時と場合はあるだろうが、喜んで応えてやる」
 こんな躰を重ね合わせた興奮まみれの状況だというのに、ゾロの瞳は静かに凪いで見下ろすサンジを見上げてくる。
 サンジはゆっくりと微笑んだ。
「お前が俺に好きだと言った時には喧嘩売ってんのかと思ったけどな。俺がお前のことを好きだと思った時に、俺はそう決めたんだ。お前は、俺のことが好きで好きで仕方ないんだ。だから、お前は俺を襲わねぇ」
 ゾロはただサンジを見つめる。その瞳に揺らぎはない。それがサンジが語ることをただ、事実だと告げている。
「それに気付いた時には、ものすごく驚いたけどな。…けど、お前はすーぐ忘れるんだ。最近また忘れてるだろう。俺がお前のこと、同じように好きだと思ってること」
 サンジの瞳がゆっくりと瞬いた。青い瞳がふさがれ、しっとりとした色を帯びてまた現れるのをゾロはただ見つめるしかできない。
 こういう彼の姿を見るたびに、ゾロはサンジという人間に見とれるしか、できなくなる。
 それだけ彼の姿は潔く、そして綺麗だった。
 昼に見た、あの海面の輝きのように…眩しくて。
 綺麗。
「まあ、お前みたいなマリモ頭にずっと覚えておくなんて高等技術は要求しねぇでいてやるよ。忘れても、まあ、いいさ。俺が覚えてるからな。いつでも、なんどでも教えてやる。お前がどれだけ俺を好きで、俺がお前をどれだけ好きか」
 好戦的に、サンジの口元が上がる。ニヤリと笑うその笑い方は、戦闘前のゾロのそれにも似て。
 2人の視線が熱を帯びて、絡まる強さを変えていく。
「好きなだけ来い。どれだけ来ても、俺がちゃーんと相手して受け止めてやるよ。俺はお前に隠さない。お前は俺が喘いで悶えて感じてる姿を何度でも堪能しやがれ。…お前にしか見せない姿をだ。覚悟しやがれ」
「…てめぇ、後悔すんなよ」
 獰猛に唸るゾロの口元も、笑みの形に引き上げられる。
「するか、バカ。気合い入れて来い」
「おお、潔くて男らしいな」
「今頃気付いたのか。お前なんかよりも何倍も俺は男らしいし、紳士なんだよ」
 ぐっと下腹に力を込めて、躰の中のゾロを締め付けてやる。
「っ…そんでエロコックかよ。最高だな、テメェ」
 サンジは背を丸めるようにして、ぐっとゾロに顔を近づけた。ゾロの唇に触れるか触れないかで、囁く。
「お褒めにあずかり光栄のいたり…食いやがれ」
「ああ。いただく」
 言葉の割に優しい腕が頭を引き寄せ、荒々しく唇をついばむ。
 同時に力強く突き上げる動きに、サンジはくぐもった嬌声を上げた。
 息絶えたヤツもいたのかもしれない。ゾロが振るった三本の刀が魅せる、軌線の朱。あの午前中の戦闘は、船長よりもゾロの独壇場だった。独壇場になってしまった。ゾロは戦いに歓喜する。そこにはあからさまな、生死が存在する。
 赤い色を伴った、生死が。
 そしてそんな後、ゾロはサンジを好きだと思うことに、ほんの少し、自分でも気付かない程度におびえるのだ。
 サンジという人物に、赤い色が滲まないのか、と。
「ふ…あっ…ああっ、もっと…もっと来いっ…」
 ゾロの上で乱れ、自らも差し出すように動く。そんなサンジの動きに、ゾロは激しく腰を揺らす。
 生死を伴う同じ色を、別の意味でまとう自分に、ゾロは気付かない。
 愛おしい。
 そう思う心は、こんなにも赤く。
 ゾロのもたらす色に染められて。
 綺麗。

 夜のキッチンで、2人は飽くことなく躰を絡ませ合う。
 小さな丸窓から月明かりが差し込み、筒状の彩りを投げかけている。
 はばかることを忘れた嬌声を邪魔することもなく、夜を深めるその光はいっそ静かにきらめいて。
 日常にまぎれた、一時の時間を染め上げていく。
 ――――その甘やかな夜を…。





END




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