□スパイダー



紫能神巳

 

 「…平和だなあ」
「まあな」

 ゴーイング・メリー号の『怪獣』二人は、先日の島で大量に購入した黒豆の皮剥きをしていた。
 麦わらのゴムキャプテン・ルフィを除けば、この船でヒマで仕方ないのが、あまり共同生活に参加しない、ロロノア・ゾロという男である。
 ちなみに、職業は剣士だ。

 怪獣───魔獣・ロロノア、ゾロ。
 海賊狩りだの魔獣だの野獣だのと異名をとっていても、こうした『共同生活』の中できちんと仕事をこなせる程度には、躾けられた。

 躾けたのは、当然、もう一方の魔獣、サンジ。
 コックが本業か足技が本業かというこの若き一流料理人は、テーブルマナーに少しうるさい。
 当然、半生を『バラティエ』という、何物にも代えがたい故郷であるレストランで過ごしたのだから、それも仕方が無い。


 そして唐突だが、この二人、恋人同士である。


 喧嘩上等、どっちが売るのが早いかと思われるような日常の中で、ほんの少しだけの、秘め事。
 誰にも言わない、見せない、触れさせない。
 そんなふうに、この想いを抱いているのは、果たして、どちらの比重が高いだろう。

 好きだと言い、好きだと言われた。

 だから、両想いになった───とても、簡単な話のように聞こえるが、どちらにも苦悩はあった。


 心だけでは満たされない。
 目に見えないものを『手に入れた』と思えるほど、二人ともセンチメンタリズムにできていない。
 手に入らないから欲しいのだ。
 手に入らないものを、欲しい、といつも思うのだ。

 ただ、『手に入らないもの』が欲しいのではない。
 月の光、星の飾り、そんな『手に入らない』物が欲しい、のではない。
 欲しいのは、まだぎこちなく過ごしている、恋人の愛情。
 
 好きだ、と言い合った後からのほうがぎこちなく、ギクシャクしている。 
 でも、それも恋の醍醐味、とサンジはむしろ楽しんでいた。

 好きな人が居る。
 自分を好きだと、全身で、全霊で、示してくれる人が居る。
 好きな人が、傍に居る。
 離れる予定も、別れる予定も、今のところ、無い。
 ルフィの指揮の元、ルフィの目線の後を、どこまでも一緒に追っていくだろう、仲間。
 

 もう、たった一人、なんて日は、来ないのかもしれない。
 コレが永遠に続けばいいのにと───いつだったか、ロビンと、軽口で話したことがある。


 恋を。


 その、甘い響き。
 そんなものを、そんな柔らかい空気を、身にまとって生活できるなんて、考えたこともなかった。
 人のことは愛しいけれど。
 愛しい人は、居るけれど。
 

「───なんだ?さっきから、ボケーっとしてやがって」
 
 不意に、ゾロが口を開いた。
 
「んあ?いや、…噂って、アテになんねえなぁ、とか」
「何の話だ」
「テメェだよ」
「───なんか、おれに問題でもあんのか?」

 サンジは、手元の豆をずっと見つめていたので、ゾロの表情には気付かなかった。
 哀しいとか、寂しいとか、切ないとか、そんな感情が綯い交ぜになった表情。
 船番が、ゾロとサンジだけだから、ゾロは素直に表情を映す。
 普段は、何かと誤解されがちな言動を取るゾロだが、その言葉はいつもほぼ正しく、真っ直ぐだ。

 だから、サンジは受けたのだ。


 ───欲しい、と。
 ───好きだ、と。

 一緒に旅をしてきて、どんな性格なのか、サンジはもう充分知っているつもりだった。
 そのゾロが、まるで柔らかい毛布に包まったときのような、優しく、ふわふわした、柔らかい言葉を吐いたので、瞬間、驚いて表情が固まった。
 けれど、それもすぐに解けた。

 何かからのジャッジメントを待っているかのような、ゾロの、一点の曇りもない、真剣な表情を、見て。


「…いや、問題とかじゃなくて」
 サンジの言葉を、一言一句聞き洩らさぬよう、ゾロは静かに杯を傾けた。

 悩み事があるのだろうか───
 痛みが、今そこにあるのだろうか───

 そう、想像はしても、サンジに対してそれを言うことはない。
 それは、サンジのプライドに皹を入れる行為に他ならないからだ。
 
 サンジの誇り高さごと、全て、愛している。
 望まれるならば、サンジには、するりとそんな言葉が言えるだろうと思う。
 その誇り高さを、愛するのだから。

「誰だって、人の子だなあ…って話しかもな。マリモにゃこの情緒は解ンねぇよ」
「…でも、おれの話だったんだろ?」
「…一生懸命だな、マリモよ」
「……そりゃあ……」

 想いは通じ合ったばかり。
 愛しい人は、すぐ傍に居る。
 この時間を永遠だと考えてしまいたいほど、傍に居る。 
 一生懸命で、落ち着きが無くて、当然なのではないだろうか。
 
 恋は、人を尤も挙動不審にさせるスパイスだ───と、サンジがいつか言っていたことを、思い出してしまう。
 おそらくは、己の『恋』ゆえの挙動不審の、言い訳として。
 けれど、ゾロにとってその言葉は、絶大なる自信になったし、サンジが挙動不審なたび、飛んでいって抱きしめたいような、そんな不思議な気持ちにさせてくれる。

「…おれはレディが好きなのになあ」
「……そういう、『おれが傷つく言葉』は言わねェ約束───」
「したよ。あー、したした。…おれだってなあ、…ケモノと惚れ合うなんて未来を想像したことなかったから、いろいろとビビッてんだよ」
「…ソレは、おれがビビらせてるのか?」
「…おれの耳に届いてた噂が、現実とのギャップにビビらせてんだ。気にすんな、マリモ。…テメェは実は迷子のボケマリモでした、って事実をこう、なんつーか実感してだなぁ…複雑なんだよ、ラブコック様は」
 そう言ったサンジは、表情を読み取ることに長けていないゾロの瞳には、『残念そう』に、見えた。

 一生懸命、なのに。

 サンジの気持ちが掴めなくて、欲しくて、つい、手を伸ばす。
 触れる場所に居ると、確認したいのは、ゾロの方だ。
 何故かどこか『寂しそう』なサンジの為に、触れることができる場所にいると───伝えたくて、堪らない。
「…っ───!」
 顎を捉えて、噛み付くように口吻ける。
 予想外だったらしいサンジは、手元の豆をばらばらと甲板にばら撒いた。
 それをも気にせず、深く、深く口吻ける。

 舌を絡める。
 熱い吐息が混ざって、唾液が糸を引くように絡み合う。
 呼吸が苦しくなるほど、お互いの呼気で酸素を得ているのかと錯覚するほど、絡め合って、歯牙を辿る。
 サンジの整った歯牙は、ゾロの舌をやんわりと甘噛みしてきて、たまらなく、キモチイイ。

 ───手に入れたばかりの、恋。

「おれを狂わせてるのは…テメェだからな」
「っ…は…マリモの…トチ狂った責任まで…おれが負うのかよ」
 そんなことを言いながらも、サンジは、綺麗に、とても綺麗に笑った。

「ったりめェだ…指も髪も何もかも───何もかもで、おれは、狂ってんだ」
「おれ様にメロメロか?マリモちゃん」
 言葉の割に、相変わらず綺麗に、綺麗に微笑んだまま、サンジはゾロを抱きしめた。
 
 ひとの体温は、温かい。
 ひとの体温は、気持ちいい。
 ひとの重さは、気持ちいい。

 ───ゾロの重さは、気持ち、いい。

 そんなことを覚えてしまったのはいつだろうと───もう、どうでも良くなるような回想をして、サンジはまた、笑う。
 柔らかく優しく、ゾロの心を包み込むような笑顔で。


 欲しいと、手を伸ばしたのは、単に瞬発力の差だったのかもしれない、そんなことを考える程度には、サンジはこの不器用な剣士を愛しんでいる。
 そして、それは剣士にも伝わっている。
 
 でも、ただ、もどかしいだけだ。

 もっともっともっと───
 独占したくて占有したくて、絡まりたくて絡めたくて、解りたくて解らなくて。
 サンジの奥底にある、【痛み】に似た何かが、解らなくて。解りたくて、ただ狂うようにもどかしい。


 こんな愛し方で、あっているか?
 この愛し方で、間違ってはいないか?
 こんな愛し方しか、できないけれど。
 こんな愛し方しか、知らないけれど。



 祈るような気持ちで、ゾロはいつも、サンジのその細すぎる体躯を抱き、抱き潰してしまいたい衝動に駆られながら、柔らかく毛布の上に横たえる。
 傷つけることも、痛むことも、したくないからだ。
 髪の毛一筋ですら、傷つけたくないと、そんな思いすら、抱いているからだ。



 こんな愛し方で、あっているか?
 こんな愛し方しか、愛らないけれど。



 サンジに問うことのできない、でも、問うてみたい、ゾロの中の煩悶。
 ゾロの中の葛藤。

 知らなかった。
 人を愛するということが、こんなにも、繊細なことだったなんて。


「好きだ───テメェの望みをおれが叶えられるなら、叶えてェ…好きだ」


 人を好きだと想う事。


 それは、きっと単純で、複雑で、荒削りで、繊細で。
 それのどれも、ゾロは経験したことが無かった。
  
 大切だ、大切にしたい、自分のものにしたい、けれどそれは愛した人を縛る行為。
 それは、『縛る』行為になるのだろうか。
 それすら解らない、手探りの恋。
「おれの望みは基本的に───毎日叶ってたり、いつかどこかで叶うから、テメェの出番はねぇよ、アホ剣士」
「───毎日?」
「…おう。おれのメシ喰って笑って、皆が笑ってて───おれらの船って、何かこう…すげえ、【シアワセ】って感じで良いなって…思わねぇか?それを、祈らねぇか?…これがずっと、…って」



【シアワセ】。



 ひどくしっくり来ない言葉だ、とゾロは思った。
 サンジの唇から出た『シアワセ』という言葉は。

 ゾロが、サンジの【痛み】として知覚したものと、とても似た匂いがする。
「───クソコック」
「あンだよ、クソ緑」
 憎まれ口のサンジを、引っ張って胸の中に収めた。そして。 





「待てコラああああああ───!!!」



「うるせえ。おれは今すぐテメェを抱く」
「了承を得ろ!!まだ豆剥き終わってねぇよ!!今昼間だろうがよ!!」
「───じゃあ、了承しろ、今すぐ。豆は良いだろ、後でやっても。時間は関係ねェ」
「おれには大いにある!!昼間からサカるなドーブツ!!!」
「…サカってんじゃねえ」
「じゃあケツ触ンなこの野郎!!」
 大騒ぎのサンジを、ゾロは、声量を全く気にとめず、格納庫まで強制連行して、そして。


 ───抱きしめた。


 愛しくて。

 どうやって愛していいか、解らなくて。
 この愛し方しか、知らなくて。
「───ゾロ?」
 ただ、じーっと抱きしめているだけのゾロに、サンジが不審な声を上げる。

 ああ、なんて、と思う。

 きんいろの髪。
 まるい頭。
 ほそい体躯。
 しろい、肌。

 それに、狂わされた、とゾロは思う。
 こんなに狂わされたのはどこからだったろう、なんて、埒もない事も考えたりした。

「───テメェを抱く。…不満か?不安か?」
「…テメェのノーミソに少々不満を覚えるが。…何、焦ってんだ、剣豪様よォ」
 ゾロの大好きな笑顔で、サンジは困ったようにそれを言った。
 この笑顔を見ただけで、暫くイイキモチでいられる。そんな笑顔。
 ゾロの不安も焦燥も、全て吹き飛ばしてくれるんじゃないかと思うような、笑顔。
「焦ってる?…ように、見えるか?」
「見えるなァ、ダーリン。ホラよ、吐き出しちまえ」
 柔らかく笑って、それから。
 サンジは、毛布で包むように柔らかく、ゾロを抱きしめ返した。

 体温が、優しくて。
 腕が、胸が、柔らかくて。
 涙が出そうだ、と思いながら、ゾロは搾り出すように、言った。

「───おれの愛し方は、あってるか?」
「…は?」
「…おれは、何か間違えてねぇか?おれの愛し方は───おれの、テメェへの。…間違っちゃ、いねェか?」

 ゾロの言葉に、サンジは一瞬ポカーンとして、嘲笑ではなく、吹き出してから、言った。
 精一杯の言葉。
 バカ正直で、真っ直ぐで。
 それを愛しいと思えるほどに、真っ直ぐで。


 だからサンジは、ゾロを受け容れたのに。
 ───だからサンジは、ゾロを、愛した、のに。


 何にも解っていない。
 そんなことが不安になるほど、何にも解っちゃいない。
 それが愛しくて、可愛くて、大切で───サンジは、ゾロを抱きしめ返す腕に、力を込めた。


「おれの愛し方も、『合ってる』のか?クソダーリン。おれは毎日精一杯だ。でも時々手抜きもする。───『合ってる』のか?ゾロ」


「そんなんは、おれがそれで嬉しいんなら…『合ってる』とか『間違い』だとかの問題じゃ、ねェ」
「解ってンじゃねえか。───おれの答えもそれだ、ゾロ」

 そしてサンジは、艶然と、微笑んだ。
 同じだ、と、ゾロの胸に刻み付けるように。
 

 同じように不安で、同じように恋をしていて、おそらく多分、愛し合っている。
 

 好きな人が居る。
 自分を好きだと、全身で、全霊で、示してくれる人が居る。
 好きな人が、傍に居る。
 離れる予定も、別れる予定も、今のところ、無い。
 そして、恋と、愛を。
 その、甘い響き。甘く甘く蕩けるような響き。
 そんなものを、そんな柔らかい空気を、身にまとって、これからもきっと、ずっと。
 人のことは愛しいけれど。
 
 ほんの少し、『人』よりも愛しい人が、傍に、居続ける。

 ナミの予報くらい外れない、きっと、『予定』。
 愛しい人が居て、護る人が居て、肩を並べて、時に腕を絡ませて、どこまでも。いつもでも。


 ───おれの愛し方は、合ってるか?


 『恋』をして臆病になって、そんなことを考えながら、抱合する。
 溶け合いたい、絡み合いたい、混ざり合いたい。
 正体のつかめない【苦しみ】を、解くことが例え、できなくても。
 解ってあげられないかもしれないけれど、愛している。


 ───おれの愛し方は、合ってるか?


 それこそが、真実。
 

 愛には、形も色も、ないけれど。




 触れられる指があったら、充分だろう?
 口吻ける仕草があったら、充分だろう?
 抱きしめる腕があったら、充分だろう?
 触れ合う吐息が熱ければ、充分だろう?
 言葉を囁く唇があれば、充分だろう?
 絡める腕があったら、充分だろう?




 そのどれも言葉にしないで、サンジは、ゾロを抱きしめて、そして。

 全てを伝える為に、腕を絡め、唇を合わせ、そっと、息を吐いた。




 ───おれの愛し方も、あってるか?





 心の中だけでそっと、呟いて。






 絡め取られたのは、果たして、どっちだっただろう?


 甘い甘い、罠に。

 縛り付けられるように苦しい、愛に。

 涙が出るような熱い、───愛、に。











                                   【───Happy?】





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