骨まで愛して 1





 緑色の頭髪のすぐ近く、なにやらこそこそ会話する男が二人。
耳障りな奴らだと目を遣った先では、小太りな男と銀縁眼鏡をかけた男が顔をくっつけ合うようにして噂話に興じている。

「―――え、でもアレだろ、そいつ患者なんだろ?ヤバイんじゃないの」
「そりゃそうだが…マッサージの間中ひっきりなしにビンビン秋波送って誘ってくるんだぜ?まァそのセンセイも最初は躊躇ったらしいが、ハッと気がついたらブロンドの上でガンガン腰振ってたそうだ」

小太りはへぇ、と小さく感嘆の声を上げ、

「オイシー話だなそりゃ…」
「だろ?だから俺もいっぺんは大センセイが学会で留守してる時の代勤引き受けてみたい位なんだけど、あそこはお身内重視だからな」
「あー、あそこはなー」

二人は自分たちの声にそっと耳をそばだてた隣席の男にも気付けないほど熱心に、少々場違いな猥談を繰り広げていた。







 ロロノア・ゾロはいわゆる世間一般で言う整体師だ。
7年ほど前までは―――学生時代は柔道選手として圧倒的な強さで国内外の大会を制覇し、無口ながら秀でた容姿で一躍脚光を浴びたいわゆる有名人でもあった。
 その年の世界大会直前に道路に飛び出した子供を庇って交通事故に遭遇するまでは。
鍛えあげた体のお陰でようよう命は取り留めたものの、親切心からの振舞いで事実上の引退を余儀なくされるほどの大怪我を負うハメになったのだから人生とは皮肉なものだ。
 次回五輪ではメダル獲得の声も高かったゾロの不遇に集まった周囲の同情とは裏腹に、しかしゾロ自身はそれほど柔道にこだわりがあったわけでもなく。
社会復帰のためのリハビリに通ううちにスポーツ医学に興味を持ち、ならばと柔道整復師への道を選んだ。
 やがて薄情な世間は彼を忘れ、今はのんびり資格取得のための専門学校に通いつつ、整体師として自宅近くの接骨院に勤めているゾロである。







 さて本日のゾロが参加しているのは、月に一度ほど近隣の整体師が集まって受講する、『機能訓練技術向上研究会』。
熱心に関節可動域について熱弁を奮う臨時講師には無礼な話だが、会を重ねるにつれてマンネリ化してきた講習を真面目に受けるものはほとんどいない。
 それは比較的真面目なゾロとて同様で、聞き飽きた内容に欠伸をかみ殺すのに苦労していた。

 そんな風(に堂々と居眠りしていないだけマシ)な状態だったゾロの耳に、先ほどの会話が入ったのはほんの偶然だ。

 すぐ隣でヒソヒソと交わされているのは、業界ではよくある都合のいい噂話のようだった。
普段であればそんな下らない話など右から左に聞き流すゾロだが、男たちの会話に出た整形外科がまさしく学生時代の恩師の経営する病院だったことがふと彼の気を引いた。

「―――月曜日は間違いなくソイツが通ってくるらしいんだけどな…ま、実物見てその気になるかはさておき、だ」
「なんだそれ。お前が据え膳に手を出さないなんてことがあるのか」

小太りの驚きを隠しもしない口ぶりに、この男はかなり下半身が緩い人間なのだなとゾロはこっそり苦笑し、ついで彼の口から漏れた言葉に(うげっ)と眉を顰めた。

「あー、問題はソコだ。聞いて驚くなよ、その患者実は…男なんだ」
「あぁ?!おいおいオカマかよ〜」

幾らお手軽でも男はゴメンだ、なんてあからさまにガッカリした小太りに、銀縁眼鏡はいやいや、と首を振る。

「そこがそれ魔性の魅力っつうの?…男のくせに女よりずっと細くて、抜群のプロポーションでな、なんかもう見た目からフツーとは違う。シミはおろか黒子ひとつない真っ白な肌で、すべすべしてて艶があって、吸い付くような感触で?長めのプラチナブロンドから真っ青な瞳で見上げられたら、そんな気これっぽっちもなかった整体師が片っ端から落っこちるって、通院半年にして既に伝説の淫乱なんだと。アッチのほうは」

ゴクリと唾を呑む小太りにニヤリと笑った銀縁眼鏡が一旦言葉を切り、

「―――とにかく病み付きになるほど凄いらしい」
(バカらしい)

 思わせぶりに声を潜めた一言を、ゾロは心中であっさりと一蹴した。
事故の折ゾロが世話になったのは件の大病院で、その話題性から院長自らが担当医となってメンドウを見てくれた曰くつきの人物だ。
 結局ゾロが柔道界に復帰することはかなわなかったが、退院時「自分もこの世界に入りたい」と告げた言葉を笑わずに受け止めてくれた院長は、その時からゾロにとっては恩人のひとりである。
 そんな恩師の整形外科は、この界隈では一番規模の大きな個人病院だった。
専門では最先端の医療を自負するだけあり、県からの救急指定による24時間体制や平常でも深夜に及ぶ診療時間は常にスタッフ不足に喘いでいる。
 そこを補うのがゾロの働くような小さな接骨院だ。
そこからパートタイムの整体師を借りては常勤の合間に組み込んで補完し、ゾロ自身たまに呼ばれて恩師の病院でバイトをすることもあったのだがしかし。

(…ンな話、聞いたこたねェぞ)

 病院にありがちな都市伝説のひとつのように面白おかしく語られているのだろうが、幾らなんでも下世話が過ぎた。
 これ以上聞いていても何の益にもならぬ、と演台の講師に意識を集中させたゾロである。
 後日まさかその『淫乱患者』に自分がぶち当たることになるとも知らず。







 一目で彼が『それ』だと解った。
折りしも今日は丁度そいつが現れるという月曜日。
 代勤で臨時整体師として恩師の病院に駆けつけたゾロの目の前にいるのは、襟足までの見事な金髪、抜けるように白い肌を持ったまだ若い男だ。
 話どおりの蒼い瞳と、何よりもその投げつけてくるような強い視線が、果たして噂は真実であったのかとゾロに奇妙な感慨を抱かせた。

「―――今日はこないだのセンセイじゃねェんだな」

 ボソリと漏らした不躾な言葉はまだ歳若いゾロを侮ってのことだろうか。
普通、患者はあまり整体師と目を合わせることはしない。治療とはいえ赤の他人に体をまさぐられるわけだから致し方のないことだ。
 それをこの男は、診療台に横になった今も気安く話しかけながらまじまじとゾロを見つめてきている。
何がそんなに面白いのかと滅多にない経験をゾロは内心訝しく思ったが、ついで(値踏みしてやがんのか)との可能性に気付き密かに呆れた。
 他の人間はいざ知らず、少なくともゾロには見ず知らずの、それも男と関係を持つような趣味はないのだから。

「三交代制ですからね。―――サンジ…さん、今日はどこか痛むところが?」
「痛ェから来てるんだろアホじゃねェのセンセイ?カルテ見ろよ」

思わず額に青筋が浮くほど生意気かつ挑発的な喋り方だ。
 まだキャリアの乏しいゾロだって、患者に接する前はどんな軽症だろうと気をつけてカルテをチェックしている。
 この男の通院理由は脊椎骨の右方歪曲に因る激しい腰痛で、対処は温冷療法と左側下部の牽引、それからマッサージだ。
 それだけでなく現住所も職業がサーヴィス業(恐らく夜の仕事だろう。そう思わせる華やかさがこの男にはあった)であることも年齢が偶然自分と同じだということも、それから―――半年前の日付を記録する初診日まで、事前に余すところなくゾロはアタマに叩き込んでいた。
 初めて相対する患者への気遣いからの言葉など、サンジとかいうこの男には通用しないらしい。
ムカつく気分を抑えながらゾロはお座成りにカルテへ目を遣り「そうですね」と相槌を打ちながら、細長い手足を黒革張りの診療台へ伸ばした青年に向き直った。
 どんな相手でも患者は患者。自分は自分の仕事をこなすだけだ。







 うつ伏せになるように促すと「へいへい」とふざけた返事を寄越しながらも、金髪は大人しくゾロの言葉に従った。
 薄手の黒いTシャツに肩甲骨がくっと浮き上がり、肉の薄さを伺わせる。
さて、と触診のため指を背骨に這わせるように動かすと、

「んア」

青年が鼻から小さく擦れた声を漏らし、ゾロはばっとその手を引いた。

(なんだ今の声は!?)

 思わず赤面しかけた整体師を、金髪は小さな頭をこころもち横に倒して仰ぎ見る。
深い蒼を湛えた瞳にじっと見つめられ、ふらりと吸い込まれていきそうになった自分にゾロは驚きを禁じえない。
 サンジは形のよい薄い唇を動かして、

「俺、まだ熱いのも冷たいのもヤってねェんだけど、今日は脱がなくていいの?」
「―――」

 意味深な発言に一瞬目を点にしたゾロだが、すぐに彼の意図するものが『温冷療法』だと気がついて、今度こそ褐色の肌をわずかに染める。

「あー…すみません、上だけ、脱いでいただけますか」

 すぐに身を起こしてTシャツの裾に手をかけたサンジの腹がちらりと視界に映り、ゾロは即座に彼に背を向けた。
 真っ白な腹筋を間近にした途端らしくもなく心臓がばくんと跳ね上がり、堅物とはいかないまでも武道家として常に自らを律してきたゾロは、己の体が見せる顕著な反応に狼狽を隠せない。
 まさか、診療中に、患者相手に、―――催す、など。

(ありえねぇ、だろ?)

それは自分への問いかけだった。







 患者のプライバシーを重んじるこの病院は、ゾロの普段働く接骨院とはソフトの面だけでなくハードの面でも大きな開きがある。
 医師による診察だけでなく、理学治療そのものも各人に個室で対応するのだ。
経済力があってこその設備だが、常々羨ましいとすら思っていたそれを、こんなに忌々しく思う日が来ようとは。
 今ゾロがいるのは、素っ気無い診療台があるだけの狭い施術室だ。
二人きりの密室をやたら息苦しく感じるのは何故だろう。
 まるで据え膳のように横たわるサンジ(半裸)の腰に、傍に置いた専用ケースから取り出したホットパックと冷却パックを3分毎に載せ替える作業を、ゾロは無言のまま繰り返す。
 本来ならその間、パックを載せた患部以外を揉み解すのも仕事のうちなのだが、何故だかゾロはそうする気になれなかった。
 惜しげもなく晒されたサンジの背中があまりにも白いのに目を奪われて、身動きするのも辛くなったからだ。

「あー…気持ちいー」

俺コレされんの好き、とうわ言みたいに呟かれて、ゾロはうっかり前かがみになりそうだ。
 温度差で患部に刺激を与えるこの療法は痛みの緩和にかなり有効だが、パックを取り替えるたびに上がるサンジの「あ」とか「う」とか言う呻き声は、ゾロを刺激するにも充分以上に有効だった。
 紛うことない男の、低く押し殺したような声なのに。
サンジの唇からかすかな音が紡がれるたびに、ゾロの中の何かが壊れていく。
 魔性、という単語がひらりと脳裏に蘇った。
まさか、よりによって自分が?

(『女より細くて抜群のプロポーション』)

 確かに細い。
ゾロが本気で締め上げたら折れてしまいそうな肢体はだが、細い割にしっかりと筋肉がついている。まるで異国の彫刻のように均整の取れた体だ。

(『シミはおろか黒子ひとつない真っ白な肌』、か)

 では手触りはどうだろう?
さっきはシャツの上からだったから、折角触ったのによく解らなかった。
 温冷治療の目安である30分を終え、最後の交換で発作的にゾロはそう思い、剥き出しの背中にぺたりと手のひらをくっつけてみた。
 冷却パックをはずしたばかりの肌はひやっとして冷たいが、それが余計に陶器の滑らかさを連想させた。
なるほど吸い付くような肌とはこのことかと得心がいくゾロである。

「?」

 金糸がさらりと音を立てて揺れ、サンジがうつ伏せたまま首を向ける気配がする。
後であれにも触ろうとか思っちゃってるゾロは、既にかなりヤバいかんじに彼の誘惑に引っかかっていた―――のかもしれない。

NEXT

 (2003/05/05)

Template by ネットマニア