コックさん 1





『これに懲りたらへタに俺を挑発すんじゃねェぞ?次は泣きべそ位じゃ済まさねェからよ』


アレは、どういう意味だったのか。
次に挑発したら、こうなるということだったのか。
ていうか、俺がいつコイツを挑発したというのだ。


獲物に喰らいつく肉食獣の瞳をした男に見上げられながら、サンジはくらりと眩暈を覚えた。




1



 グランドライン沖合いの孤島。
そのこじんまりとした港のはずれに深夜、小さなキャラベル船が碇を下ろした。




 一夜が明け、東の空が僅かに白く染まり始めたころ。
羊頭の船首に、麦藁帽子の小柄な少年がひとり呑気に跨っている。言わずと知れたG・M号船長、昨夜の不寝番を勤めた麦わらのルフィである。
 少年はふわあと大あくびをひとつすると、眠気を振り払うように両腕を空に突き上げて叫んだ。

「朝だな。…よーしみんな上陸だァー!」

途端に背中を棒ですこーんと突付かれて体勢を崩す。
 あやうく海に落ちかけるのを、かろうじてゴムの両足を伸ばし船首に引っ掛けることで難を逃れた。
そうして逆さにぶら下がったまま器用に首の向きを変えて甲板を仰ぎ見る。
 上がり始めの太陽はまだ辺りを照らすまでには至らないが、薄暗い砲列甲板から見下ろすのは、見慣れたダイナマイトなシルエット。

「痛ェなナミ〜!いきなり何すんだ」
「そのまま勝手に出掛けそうだから止めてあげたの」
「危ねェだろ落ちたら」

ゴムの片腕をぐいんと伸ばして欄干を掴むと、少年はそのままひょいっと甲板に飛び上がった。

「危ないと思うならソコに座るの止しなさいよ」

ルフィに一撃を喰らわせたクリマタクトをひらりと小脇に抱えなおした航海士が、いつものごとく呆れ顔で船長を眺めやる。

「いやだ」
「………」

(ぶっ殺してやろうかしら)

ナミが心の中でこの言葉を呟くのは実にルフィと知り合って以来通算53回目だ。
 因みに口に出したのは39回。ご立派な記録である。

「上陸するのはま・だ。その前にアンタに話があるの」
「あー?おめぇ、朝になったら出かけてイイっつったじゃんかよう」

闇夜にぽかりと浮かんだ島影を偶然見つけたのはこのルフィだった。大声で全員を甲板に集め、いつものごとく即上陸を主張したが、既に午前2時を廻った時刻。
 つい先日かなり大きな島に立ち寄ったばかりのG・M号は現在のところ食料も装備も充実しており、お尋ね者であるという現在の状況を気にする殊勝な人間もいないので敢えて深夜の上陸を焦る理由もない。
 ましてや寝入り端を叩き起こされたクルーの機嫌はかなりサイアクで、お約束どおり船長の希望は一蹴された。
 結局ナミの提案で、夜が明けたら下船という約束になったのだが。

「俺はゆんべめちゃくちゃ我慢したんだぞ」
「知らないわよそんなの」
「なぁ〜すぐ帰ってくるからよう〜」
「そういうことは一度でもすぐに帰ってきてからお言い!」

ビシッと細い指先と共に指摘されるが、明後日の方向を向いてでたらめな口笛で返す。

「夜明けと共に出かけていいなんて一言も言ってないし、遊びに行かれても困るの」
「遊びじゃねえ、冒険だ!」
「あーハイハイいいから聞いて。あのね、サンジ君のことなんだけど」
「サンジ!」

その名前を耳にするなりルフィの眼がきらりーんと輝いた。

「サンジだサンジ!あっぶねえ忘れるとこだったぜ!―――サンジ朝メシ〜ッ!」
「ちょ、ちょっとルフィ、あんた人の話を―――」

聞くわけもなく。
 メシメシと連呼しながらナミをすり抜けラウンジへ飛び込むサルそのものの後姿に、ナミは苛々と愛用の武器で床を弾いた。

「…ぶっ殺してやろうかしら…」

40回目をはっきり口に出してみても、気の早い船長は既に影も形もない。

「サンジ君がおかしい、って云いたかったんだけど…アイツがああだってことは、…つまりほっとけってことなのかしらね?」

誰にともなく呟くと、ふわあとレディにあるまじき大欠伸をしつつ、今頃はラウンジで朝食作りに励んでいるだろうコックを思った。






 クツクツと音を立てる寸銅鍋、テーブルの上には最初の発酵を終えたばかりのパン生地と、大きめのオーブン皿が二枚、それに溶き卵とトッピング用の食材が少々。
 ボウルに差し入れられた長い指が一握りの生地を掴んでは、ころりと丸めてオーブン皿に並べていく。




 サンジが只今手がけているのは朝食用のフィリングバターロール。きっちり25個ずつ皿に収めると、キッチン鋏で十字に切り込みを入れて手際よくドリュールを塗っていく。中央にスライスしたオニオンとハムを乗せて下準備は完成だ。
 ん、と満足げに煙草に火をつけたのと同時に、

「サンジ今日もはえーな!腹減った朝めし!」
「メシはまだだクソゴム」

ばあん!とぶち壊す勢いでラウンジのドアを開けて入ってきた少年を見向きもせずに、手馴れたコックはひょいとハムの切れッ端を放ってやる。
 わざと高めに投げられたそれにゴム船長の首が1メートルばかり伸びて、大口がばくりと咥え込んだ。
 しぱん!と景気のいい音を響かせて首を定位置に戻したルフィは、くちゃくちゃとお行儀悪く咀嚼しつつも早速テーブルに並べられたオーブン皿に目を付ける。

「なんだそれ?」
「パンだよ。見て解んだろ」
「わかんね」
「だろーな…まぁ美味いこたァ確かだぜ?」

誘うようにサンジがにやりと哂うと、ルフィは涎を垂らしながら焼成前の生地にふらふらと吸い寄せられた。

「イー匂いがすんな〜。食っていいか?」
「朝飯抜くけどな」

その言葉にむう、とルフィが唸った。
 一足お先、の味見も捨てがたいがサンジの作る朝食だって抜くのはゴメンだ。

「じゃあ我慢する。そんかし、俺大盛りな〜」
「おりこうさんだ」

ニッコリ微笑むサンジを見て、ルフィはちょっと得した気分になる。これだからサンジに我儘を言うのはやめられないのだ。
 煙草を半分ほど吸い終えたところで、サンジはオーブンの前に屈み込んだ。予熱を終えたそこにオーブン皿を入れて、メインの続きに取り掛かる。
 サンジがルフィに背を向けたと同時に、そろりそろりと少年の右手が伸び始めた。
目標は勿論まな板に乗せられた食材だ。
 無造作に置かれた林檎に指がかかる寸前、音もなく垂直に上げられたサンジの足がゴム腕を思いっきり踏みにじった。

「…イデェェェェエ!」
「―――船長。俺ァメシはまだだ、って云ったぜ…?」

オーブンの前に座り込んだまま器用に足だけ動かしたサンジが、ゆっくりルフィを振り返る。
 地の底から響くような低音で凄みを利かせつつもニッコリ笑顔のコックは、だから余計に恐ろしい。

「テメェが見境なくなんでもかんでも食っちまうから、いつでもこの船は不景気なんだよちったぁ自覚しろ!」
「スイマセン」

ギリギリと手の甲を踏まれたまま、ルフィはべたりと床に頭をつけた。それなりに反省した様子に(ふむ)とサンジが足を外すと、ゴムがしゅるしゅる元気なく縮んでいく。
 そしてコックさんを見上げて一言。

「でもよ俺、腹減った〜…」
「………」

さっきまでの勢いはどこへやら、この言葉には弱いコックである。ついでに捨てられた犬コロのような瞳で見つめられると、どうにも甘やかしてしまうのもいつものコトで。

「…ったく、しょうがねェな」

ほらよ、と哀れなゴム人間に林檎を二個ばかり放ってやる。これで今朝のサラダから食材がひとつ消えた。

「おお!サンキューサンジ〜ッ!」

打って変わってニシシと嬉しそうに笑うその顔を見てしまえば、サンジだって苦笑いを浮かべるしかない。
 目的を果たして機嫌良く甲板に飛び出す背中を見送って、軽く溜息をついた。

「しょうがねェのは俺も一緒か…にしてもクソゴムの食欲だけァ話にならねェぜ…」

必要ないと思ったが、やはりこの島でも余分に買出ししとくか、と細い首をカキコキと左右に曲げながら考える。
 と、左に人間の気配。

「テメェ性懲りもなく…―――ッ?」

大きく振りかぶった左足は、闖入者にヒットする前に刀の柄で受け止められた。
 てっきり大喰らいが戻ってきたかと思いきや、現れたのは緑の短髪、腹巻姿の三刀流の剣士―――目下サンジが一番苦手とする同い年の男、ロロノア・ゾロだ。
 寸手のところでサンジの回し蹴りを止めたゾロは、いつもどおりの無愛想な仏頂面で片足を上げたままの状態で固まるコックを睨みつける。

「随分な挨拶だなオイ」
「ク、クソマリモ!?テ、テメェ何で」
「アァ?俺がここに来ちゃマズイことでもあんのかよ?」
「ッ、…ねェ、けど…」

テメェがンな早くにお目覚めなのが不気味なんだよ、と言い放ちたい気持ちをぐっと呑みこむ。
 まだ朝日は昇ったばかり、寝るのが三度のメシよりも好きだとしか思えない寝腐れ剣士がこんな時間にラウンジに来るのは本当に珍しい。本来ならば朝食時間にすら間に合わず、大の字で寝たその腹にサンジの足をめり込ませて起きるのが常だったのだ。…つい先日までは。
 ゾロが刀をふい、と動かしてゆっくりサンジの足を払った。そのままラウンジへずかずかと入り込み、奥の椅子にどっかりと腰を降ろす。

「あ?」

特に害を与えたり、ツマミ食いをしたいわけでもないらしい。無言で腕組みをして偉そうに腰掛ける剣士がどうにも気にはなるが、朝のコックさんは忙しいのだ。
 無視して調理の続きに取り掛かるが。

「………」

背後からどうにもイヤな視線を感じる。特に、剥き出しのうなじの辺りがむずむずしてしょうがない。じゃがいもの皮を剥く刃先が滑りそうだ。

(んだ…?なんかすげえ悪寒を感じるぞ…つうかなんで見てんだ…)

そのどーしよーもない不快感がサンジの短い導火線に火をつけるのは容易かった。十分もしないうちに、くるりと背後の剣士を振り返る。
 包丁をまな板に戻しテーブルに歩み寄ると、不愉快も露に唇を歪めて、

「…おいクソ剣士」
「なんだクソコック」
「用がないなら出てけ」
「アァ?んでお前に命令されなきゃなんねェんだ」
「気が散るっつんだよッ!ジロジロジロジロヒトのウシロアタマ見やがって、なんか面白ェことでもあんのかこの早起き腹巻!」

微妙に悪口とも思えないが取り合えずそう罵倒して、ぜえはあと息も荒くラウンジのドアを指し示す。さっさと出ろ、の意思表示だ。
 しかしそんなサンジにニヤリと哂い、ゾロは平然と言い放った。

「確かに面白ェな。お前が慌ててんのは」
「…何ィ…?」
「そんなに俺が気になるか?」
「―――!」

ガタン、とことさら大きな音を立ててゾロが立ち上がる。
 ゆっくりサンジに近づきその距離を縮めると、釣られて思わず後ずさりした痩身はすぐにキッチンにぶつかった。ついに行き場がなくなり後ろ手にぎゅっとシンクの端を握り締める。

「…く、んな…ッ」
「お前は、―――」

コックの胸倉めがけ伸ばされたゾロの腕は、しかしサンジに届く前に空を掴み、拳となって下ろされた。
 丸窓を見慣れたオレンジが通り過ぎたためだ。

「おっはよーう!…何してんの、あんた達」
「んナナナナナミさァんッ!」

タイミング良く現れた女神に、サンジの瞳が瞬時にハートマークに変わった。

「アアッ今日もお美しい〜ッ!朝の光に輝く貴女はまるで天使のようだ…ッささ、お座りになって!お目覚にチョコレートなど如何です?」
「あらありがとう」

さっと引かれた椅子に当たり前のように腰掛ける。崇拝者からすばやく差し出された小皿に手をつける美少女が、拳を握ってアホのように立ったままの剣士に首をかしげた。

「どうしたのよゾロ、あんたがこんな時間に起きてるなんて珍しい。嵐でも来るのかしらね?」
「…気紛れだ」

語意も荒く言い捨てると、ナミにも彼女にメロるコックにも興味がないのか、剣士はさっさとラウンジを出て行く。
 その後姿に、ナミはちらりと目を走らせる。次いで、そんなゾロを見てあからさまに安心した風情のコックに。

(ふうん?)

「…おかしいのは、サンジ君だけじゃないみたい」
「何か云った?ナミさん」

ボソリと呟いた言葉はしつこくナミへの賛辞を謳いあげていたサンジの耳には入らなかったらしい。
 ううん別に、と特別サービスの笑顔で答えながら、船長以上に目敏いナミはどうしたものか、と考える。




どうも最近、この二人はぎくしゃくしている。


特にこのアホコックは。

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