20時からの恋人 1 |
1 ゾロ 19時55分着の急行で駅に降り立つと、途端にビュウ、と冷気が襲ってきた。 思わずブルリと来て身を竦ませる。 吐く息が白くなる季節だ。 (日が出てる間はともかく、夜は流石に冷えるな) スーツの上に羽織ったコートの前を止めながら人込みを掻き分け、横断歩道を挟んで正面の明かりに向けてゾロはまっすぐ歩を進める。 小さな屋台だった。 詰めてもようやく4人が座れるだけの長椅子と、右の角席に小さな丸椅子がひとつだけ。席数だけを見てもどう頑張っても儲かりそうもない店だ。 今にも崩れそうなボロボロの木造に、真っ赤な提灯と端っこのほつれた古臭い赤暖簾がかかっている。 筆文字で大きく『おでん』とだけ書かれた暖簾の隙間からは、絶え間なく白い湯気が立ち上っており、目の前までくると食欲を刺激するなんともいい匂いが漂っていた。 今時珍しい古典的な屋台だが、この暖簾を潜るとそれだけでなんとなく暖かくなる、とゾロは思う。 「…ェラッシャーイ!」 ゾロの指定席となった端の丸イスに腰掛けるよりも前に、やたら若くて威勢の良い男の声がかかるのもお約束だ。 すっかり馴染になった今でも、この出迎えだけは変わらない。黒いほっかむりに黒いエプロン、咥え煙草のおでん屋が、ゾロの前に「ほれ」と暖かいお絞りを投げてやる。 暖かいお絞りで指先を温める間もなく突き出しが用意された。 「今日のオードブルはアサリの酢味噌和えでゴザーイ」 「オードブルかよ」 大仰な物言いに苦笑しながら目の前の小皿を箸でつつく。 接待に次ぐ接待で、都内数々の有名料亭をハシゴさせられてきたゾロにも解る、洗練された味わい。 きっちり砂を吐かされたアサリと乾燥モノなんかでは絶対に出ない歯応えのワカメが、ほんのり甘い酢味噌でふわりと纏められている。 とても駅前のおでん屋風情で出されるような代物ではない。 ゾロが駅前のガード下にちょこんと設置されたこの屋台に偶々立ち寄り、ついでに仕事帰りの平日毎晩通うようになって、もう三ヶ月を数える。 若いおでん屋とは年が近いらしいこともあり、すぐに旧年来の友人のように打ち解けた。 元々砕けた性格であったのだろう、今ではお互いタメ口を利きあう仲だ。 「お疲れさん。寒くなったなよなァ今日は。…飲んでくんだろ?」 「あぁ」 「兄ちゃんこっちも、もう一本つけてくれ」 アツアツのお絞りで親父よろしく手から顔から拭いていたら、先客が追加注文した。 「アイヨッ…ってオッサンダメじゃねぇか。奥さんから深酒禁止令出てんじゃなかったのかよ」 「おーおー出てるとも!だからここまで来て飲んでんじゃねーか」 既にいくらか酒の入ったらしい赤ら顔が、盛大に楽しそうに云った。 「ハハ、そりゃ違いねェ。…1本飲んだら、美人の奥さんトコに帰ってやれよ?」 「あんな古女房、兄ちゃんの方がよっぽど美人だァな」 そりゃそうだろう、とその場に居合わせた客たちが笑う。客同士に面識がなくとも、この店はいつもこんな調子だ。 「兄ちゃん相手だったら俺だって十年ぶりに使えッかもな」 「オイいくら俺が鄙には稀な美青年だからっつって妙な気起こしやがんじゃねぇぞ?」 ゾロの前にお銚子とぐい飲み、箸休めのくらげを出してやり、徐に正面に向き直ると客に向って云うには多少物騒な暴言を吐く。それでもその顔は言葉には不釣合いなほどカパーッと笑っていて、客たちはまたドッと笑った。 「怖い怖い」 「兄ちゃんの蹴りはスゲェからなァ」 細身な体つきからは信じられないことに、このおでん屋はなかなか腕が立つ。 性質の悪い酔漢や小遣い稼ぎに金をせびろうとする不良なんかを足一本で伸してしまうのなんかは日常茶飯事だ。 冷やかしで屋台に蹴りを入れてきた通りすがりのヤンキーに対しては10倍返しのローキックを。 暖簾を潜るなりミカジメを要求したヤクザには、居合わせたゾロが腕を貸そうと立ち上がるよりも早くカウンター越しに跳び蹴りを喰らわせた。 思わず驚愕を通り越して感嘆したものだ。腕前よりもその喧嘩ッ早さに。 「チョビ髭生やした美青年かよ」 手酌でクイ、と適温の酒を遣りながら揶揄してやると、何がおかしいのかゲラゲラ笑いながら山盛りのおでんを置く。 「そりゃアレか、髭が無かったら自称美青年でもOKってことか?」 「お前自分で恥ずかしくなんねェのかよ」 「恥ずかしがっても俺が美人さんなのは変わらねェからな!」 いやムシロ誇るべきか?と気持ち程度にちんまり生やした髭を触りながら考え込む。 (どーん!) おでん屋の背後にどでかい書き文字が見えた気がして、とうとうゾロは爆笑した。全くこいつは面白い。 くわっと口を開けてちくわを頬張る。色の薄い出汁に十分浸かったそれは、お世辞抜きで素晴らしく旨い。続けて卵、コンニャクとガツガツ貪り食う間にも、ゾロの前にはどんどんおでんが追加されて行く。 食べながらちらりと鍋に遣るゾロの視線を「おかわり」だと判断して勝手に放り込むのだ。 それはあながち間違いではなかったが、実はその半分程度はおでんよりも菜箸を器用に操る白い指だとかその持ち主の横顔だとかに注がれていたりする。見られる本人はまるきり気づいていない。 「にしてもまァ」 菜箸で具材の上下を入れ替えてやりながら、 「ほんと良く喰ってくれるよなァあんた」 「そうか?」 「毎晩毎晩おでん尽くしでいい加減飽きねぇか?俺のおでんはそんなにクソ美味ェかよ」 「…あー、まぁな」 呆れた風を装いながらも、その返事におでん屋は眉毛をへにゃっと下げた。 相当嬉しかったらしい。 子供のようなその表情にゾロは思わず苦笑し、心の中で密かに詫びた。 何せゾロは。 確かにこのおでん屋の料理はものすごく口に合うけれど。 言うと即行叩き出されそうなので口には出せないが、毎回趣向を凝らした突き出しより、鍋いっぱいのおでんより、たまにサービスされる野菜の煮物だとかより。 (作ってるお前の方を) どーせなら喰っちゃいたい、とか考えていたりするのだ。 三ヶ月毎晩山のようなおでんを食い続ける男ロロノア・ゾロ28歳。 最寄り駅から通勤30分の某有名建築会社にお勤めのバリバリのサラリーマンである。 会社では妙齢の女子社員から『ロロノアさんてクールで素敵』なんつって噂されたりもしてしまう彼は、同性である、実はいまだ名前も知らないこのおでん屋に。 それはもうもうめためたに惚れていた。 |
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(2003.03.05) |
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