春、間近 1 |
1 雪の日 その日は朝から、近年稀に見る大雪だった。 男は大きな手の平で乱暴に窓ガラスを擦って結露を取り去り、僅かに覗いた隙間から忌々しげに下界を眺めやった。 見える景色は白と合間に僅かにのぞく灰色だけで、ワタの塊みたいなでかい大雪がどかどか降りまくって視界不良も甚だしい。 (こりゃあ、電車止まってんな) むう、とベッドの上で不機嫌を隠そうともせず偉そうに腕組みをする男の名は、ロロノア・ゾロという。 無駄のない鍛えられた筋肉、精悍な顔立ちに射るような鋭い眼光。着ているものが病院支給のパジャマもどきなのでかろうじて入院患者だと解るほど、やたらめったら凶悪かつ元気そうな男である。 如月も終わりに近い。 本来なら春の気配が見え始めても良さそうな時期だというのに、季節外れの大寒波で街はすっかり真白に染まっている。 冷暖房完備の総合病院ではあるが、エアコンだけではこの急激な冷え込みには対処しきれないと判断されたらしい。あまりの寒さに各病室には一度仕舞われた簡易ストーブが設置しなおされ、その上ではやかんがしゅんしゅんとひっきりなしに蒸気を上げていた。 (今日は―――) この分ではあいつは来そうにない。 冬まるごとを病院で過ごした男は軽く嘆息しつつ窓からゆっくりと視線を外すと、つまらなそうにベッドにひっくり返り、味気ない天井を見上げた。 もう今日は何もせずにひたすら寝入ることに決め、逞しい両腕を頭の後ろに廻す。 たった一日あの金髪頭が見れないと思っただけで、なんだかリハビリする気力もなくなってしまったゾロである。 瞼を閉じればすぐ眠りに落ちれるはずが、なんだかむしゃくしゃしてなかなか寝付かれない。 まだ3時前という時間帯を考えれば当たり前だったが、することもないゾロは天井を睨みすえたままオヒサマみたいに明るい金色を思った。 入り口でぱんぱんと体についた雪を払い落とす青年は、肩口で凍りついていたそれにびっくりして大仰に眉頭を上げた。 この雪の中を自宅から大荷物しょって歩いてきたのだから当然かもしれない。まるで冷凍庫にでも閉じ込められていたような自分の状態にサンジは苦笑した。 冷えすぎた手足はすっかり感覚をなくしていてさすがに堪えるが、病院の床にぼたぼたと雪や氷を落として歩き回るわけにも行かず、全身を何度も叩くようにしてようやく表面にこびりついた雪を取り除いた。 ニットの帽子とマフラー、厚手のコートを外して脇に抱え、今晩屋台で出す食材を詰めまくった大振りのリュックを背中に背負いなおす。 病院での用事を済ませた後でさらにこの豪雪の中アパートに戻るのは流石に無理だと考え、ついついそのまま"職場"へと直行するコースを選んだが…たかが見舞いにこれから雪山にでも登るかといった重装備はかなり恥ずかしい。 サンジは少々頬を赤らめながら自動ドアの前に立った。 しゅんっと軽い音と共にドアが開き、室内からの熱風がふわりとサンジを包み込む。 悪天候とあり病院のロビーはがらがらの状態に近く、退屈そうに欠伸していた受付の女性が来客―――サンジに気付き、バツが悪そうに肩を竦めてちょこんと頭を下げた。 青年はそれに微笑と会釈を返し、勝手知ったる院内をまっすぐ進む。受付にも1階の診療室にも用事はない。 (っと、) ぽたぽたっ、と髪の毛から水滴が落ちた。 ほどよく暖められた室内はまさに春の陽気で、払い損なった雪が温度差で溶け始めている。 (ヤベエなこりゃ…) このままでは着替えが必要になる。早いトコアイツにタオルでも借りよう、とサンジは急ぎ足でエレベーターへ乗り込んだ。 大部屋の使用者は現在四名。サンジが初めてここへ足を踏み入れてから若干の入れ替わりはあったものの、不思議なことにサンジはあまりゾロ以外の相部屋患者と口を利いたことがない。 この日も顔を出したサンジを認めた途端に皆そそくさと大型テレビの設置されたホールへと向かってしまった。元来が人懐っこく人付き合いのいいおでん屋は、すれ違いざま会釈しあうだけの関係に慣れた自分になんだかへこむ。 (やっぱこんなたびたびじゃ、迷惑なのかなァ) たびたびどころかゾロとの再会以来、サンジは休みなく病院へ足を運んでいる。 それなりに気を使って看護婦やら他の患者への差し入れも用意しての来訪なのだが、周囲には疎ましがられているようで肩身が狭い。 同室の患者達は親切なことに気を利かしてわざわざ退室してやっているのだが、当然サンジがそれに気付くことはなく。 青年は一瞬へにゃ、と眉尻を下げたが、すぐに気を取り直して当初の目的を果たすことにした。 さて俺のマリモは…と最奥の窓際ベッドへ目を向けると、珍しく隣との間仕切り代わりのカーテンが閉まっていて、サンジは僅かばかりその蒼眼を見開く。 (あれ) いつもならベッドで鉄アレイを振りまくっている時間だが、とサンジは首を傾げた。 つかつか近づいて閉じられたカーテンの隙間からそっと中を伺う。 (んだ。…寝てやがんのかよ) 少しがっかりしながら、サンジはほぅっと息をついた。 ぐがー、と大口開けて大の字で寝るゾロを目の当たりにして、サンジは初めてようやく人心地つくことが出来たようだ。 長い四肢はシングルのベッドでは少々手狭なようだが別段気にはしていないらしい。毛布もかけず偉そうにひっくり返っている。 取り合えずタオルを、とサンジは音を立てないよう静かにカーテンを捲って、忍び足でベッドの脇まで近づいてみた。 床にばかでかいリュックを降ろしてその上にコートやら手袋やらを積み上げると小さな山のようになった。 身軽になったところで枕もとの脇に設置された小さなワゴン棚の前に屈みこむ。畳まれたフェイスタオルを一枚拝借して頭に乗せ、隣で熟睡しているらしき恋人にくすりと笑った。 間近で見るゾロの寝顔はやんちゃ坊主のそれのようだ。 あどけない、とでも言おうか。普段は無駄に人を射竦めるような鋭い眼光を放つ男が、瞼一枚隔てただけでこんなにも可愛くなるのがどうにもおかしい。 「―――何を見てる」 「!」 思いがけず目の前の男から低い声が発せられ、サンジは即座に立ち上がった。 見下ろしたベッドの上では閉じられたままだったゾロの瞼がぱちりと開いて、くわあ、と大きく伸びをする。太い首をごきごき廻しながら上体を起こし、怪訝そうに青年を見遣った。 「悪ィ。起こしちまったか」 「構わねェつーか起こせ。…何を見て笑ってた?」 「あー気にすんな。マリモの生態観察ってとこだ…テメェ、寝顔まで凶悪」 寝込みを襲ったようでばつが悪いこともあり、サンジは思っていることとは反対の言葉を唇に昇らせる。 ゾロはそんな軽口に別段文句を言うわけでもなくじっと青年を見詰めていたが、不意に眉を寄せると、サンジに向かってまっすぐにその無骨な指を伸ばした。 「痛ッ」 「濡れてんな」 小さい顔の半分を覆い隠すように垂らされた前髪を、ちょいっとつまんで引っ張る。 それ自体が氷のように冷たくなった金糸の間から、外に晒されることのない左目が心許なげにきょろきょろと動いてゾロを見た。 サンジはいつも、ゾロと眼が合うとこんな風に困ったような顔をしてみせる。 それがゾロには少し不思議だったが、そんな顔も悪くないというかどうしようもなく可愛いので遠慮なしに眺め続けるあたり人が悪いと言うしかない。 「えっと、タオル借りてっから」 目を逸らすついでに頭上のそれに手をやった拍子におでん屋の髪の毛からぱたたっと水滴がゾロの手に落ちた。 その冷たさにゾロは口を思いっきりへの字にする。 大雪をものともせず病院までやってきたらしいサンジの全身からはくっきり冷気が漂っていて、ゾロは無性に苛々した。 ハァ、と大仰に溜息をつき、 「バカじゃねぇのかこんな日に」 「…っ」 「電車止まってんだろ。歩いてきたのか」 その通りなのだが、バカとまで言われては素直に頷ける筈もない。 かっと赤面したのに気付かれないようにと、サンジは頭をぶんぶん振って前髪をつまんだままだったゾロの手を払った。 「…俺ァどうせ、夕方にゃそのまま店まで出っから」 言外に「テメェなんざついでだ」と匂わせた途端。 ゾロの腕がぐっと伸びてサンジの薄手のセーターの裾を引っ張り、おでん屋はあっという間に顔からベッドに引き倒された。 「―――っおい!?」 思わず苦情を述べるサンジと入れ替わりにゾロはベッドを抜け出し、うつ伏せになったおでん屋の背中を片手で押さえつけながらさっさと青年のブーツを取り去った。 脱がせて見たら案の定靴下までびしょ濡れで、ゾロは乱暴に舌打ちしながらソックスを剥ぎ取ると、裸足のまま部屋の中央に設置されているストーブの前へと運ぶ。 逆さにして干すとくるりと踵を返し、ベッドへと戻ってくる。鍛錬の甲斐あって、先日まで歩行用の装具をつけていたとは思えないほど軽い足取りだ。 ゾロはどっかりとサンジの脇に腰を降ろし、うつ伏せで顔だけ上げた状態のまま、訳も解らずきょとんと自分を見つめる青年に憮然とした顔で言い放った。 「おいおでん屋」 「…おう」 「ここは猛吹雪の山中だ」 「―――はぁ?」 「お前は遭難者つうところだな。雪に足を取られつつ辿りついた山小屋には先客がいて」 「テメェかよ」 ん、と腕組みした男が頷いて、サンジはちょっとくらりと来た。 一体なにが始まったのだと半ば呆れ顔で眼を泳がせると、ゾロの瞳がしゅっと細くなり、 (ヤベ) と思ったときにはひっくり返されて上から見下ろされていた。 「っおいゾロ、ここをどこだと―――」 「山小屋。暖めあわねェと凍死しちまうぞ?」 「いーからどけッ!」 勿論さらりと無視したゾロはベッドからはみ出した青年の両足を片手で易々と抱え上げ、細い肢体ごとベッドにごろりと投げ出す。 それからその隣に図々しく潜り込むと、サンジが文句を言い出す前にぎゅうっと抱きすくめてやった。 足元に丸められていた毛布を頭まで引っ張りあげて青年をくるみ、 「人肌は我慢してやる」 なんて偉そうにニッカリ笑う。 「う」 (うううううう) サンジはかなり情けなくなりつつも、結局は大人しくゾロの腕の中に納まった。 (流されてるぜ俺…) ここ最近。 ゾロはサンジがこの表情にどうしようもなく弱いことに気がついたらしい。 それを踏まえた男は、以来ここぞとばかりにニカっと笑ってみせるようになった。 弱点を突かれたサンジは渋々と―――あくまで渋々と、ゾロの思惑に乗ってやるしかないのだ。 だからと云って、困りこそすれそれが不快なわけでは決してなくて。 むしろ仏頂面ばかりしている男のそんな顔は、何度見てもサンジの優越感を刺激してやまない。 何の根拠もないが。 多分―――自分だけが、この男にこんな顔をさせることが出来るのだ。 そう思うと多少の我儘や無体は許そうという気になってしまうのだから不思議だった。 ついさっきまでぐっすり寝ていたゾロの体はとても温かい。 冷え切った自分だからそう思うのかもしれないけれど、ぬくもりの残ったマットより、背中にかかる毛布より、密着して触れ合っている部分がとんでもなく熱かった。 まるで幼い子供に親がそうするように、タオル越しに後頭部を撫でられて気持ちがいい。 額を広い肩口に押しつけられているのは、少し息苦しかったけれど。 けれどそれはやっぱり不快ではなくて。 ゾロの熱はゆっくりサンジに浸透して、やがておでん屋は緩やかに眠りの淵に引き摺り込まれた。 |
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(2003.10.22) |
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