春、間近 2


2 鍵


 すうすうと寝息を立てるおでん屋の頬に赤味が差してきた。
目覚めて視界に飛び込んできた彼の、常から白いその肌はまるで雪の彫像のように色を無くしていて、本気で彼がこのまま凍死するのではないのかと焦ったのは本人には秘密だ。
 軽く閉じられた瞼の、金色の睫の先に水滴を見つける。
指で拭ってやろうとしたゾロは、そうすると腕の中に取り込んでぴたりと密着した体に隙間が出来てしまうことに気がついた。
 少し考えて、舌先でちょんとそれを舐め取ってやる。
腕の中で「んん」とくすぐったそうにサンジが眉を寄せたが、幸いなことに起きる気配はない。
 再会を果たして約半月が過ぎた。顔も見れずにいた二ヶ月間を慌てて取り戻すように新密度を増した自分たちである。
 近頃はタイミングさえ良ければいわゆる『手でのご奉仕』をしてくれるようにまでなった青年は、そのくせゾロがその体を引き寄せるといつもガチガチに固まって、ゾロからの『お返し』を頑なに拒んでいた。

(キスは、させんだけどな)

おでん屋はゾロとのその接触をいたく気に入っている。
 ねだるような瞳で見つめられることだってあり、うっとりと蕩けたような表情で口付けを受け入れるサンジに、(そんな顔して出し惜しみするな)とゾロにしてみれば苛々させられることしきりだ。
 折角のこのチャンスにいろいろ悪さをしたい気がしないでもないが、しかし。
こうも安心しきった顔で寛がれては、手を出すことも出来やしねぇとゾロは嘆息した。

「そこまで枯れちゃいねぇんだが…」

誰とはなしに嘯く。
 せめて悪戯くらいは許されるだろうと、そっと形の良い耳元に唇を寄せてみた。
タートルのセーターから覗く首筋を軽く吸い上げると、そこだけくっきりと赤く色づく。
 作品の出来栄えに満足げにうむ、と頷いて、ゾロはふああ、と大欠伸。
今度は良く眠れそうである。








「―――あのー」
「…うん…?」

耳元で聞こえる間延びした声に、すっかり熟睡していたサンジはゆっくりと目を開けた。
 咄嗟に自分の置かれた状況が掴めず、ぱちぱちっと瞬きを繰り返す。

「へ」

目の前10センチの距離には緑色の髪をした、大口開けてガーガーと鼾を立てる男。
 全身にかかりまくっている圧力はその男にぎゅっと抱き締められているからだと理解した途端、サンジはぼっと赤面した。

(うわ…あのまんま、寝ちまったのか)

午睡特有の気だるさもこの腕の中では心地良いばかりだ。
 石で出来たように固い筋肉を枕にしてこれでは、とおでん屋は自分に呆れた。

(不味ィなァ)

幸せすぎてどうにかなってしまいそうだ。

「…あのう、回診の時間なんですけど」

そこでもう一度掛けられた声に、今度こそサンジははっきりと覚醒し―――自分たちを呆れ顔で見下ろす担当看護婦と目を合わせた瞬間、「ぎゃあ!」と一声叫んで大事な恋人をベッドから蹴り落とした。
 二人して抱き合ったまま寝入った場所は、総合病院のそれも大部屋のベッドの上。
不埒な振る舞いにこそ及んではいなかったものの、大の男が狭い寝台にぴったり寄り添っているなんて光景は、幾らなんでも他人に見られていいものではない。

「―――ッ、何しやがる!」
「それァこっちの台詞だ!」

一呼吸遅れて床の上から文句を言う哀れな怪我人に啖呵を切り返したところで、後頭部をがちん!とドツかれた。

「入院患者以外はベッドに上がらないこと。小学生でも解る理屈だよ坊主」

オドオドと首を回した先にはカルテと思しきファイルの角。
 恐ろしいほどに無表情な白衣の老女がたしぎを従え、ふんぞりかえってサンジを眺めている。

「………」

おでん屋は無言でそろそろとベッドから降りた。
 素足のままストーブへと向かい、すっかり乾いた靴下とブーツを履きなおす。
背中に刺さる視線がそれはもう、痛かった。








(俺、もうここに来れないかも…)

見舞い客用の小さな椅子に腰を降ろし、恐縮して小さく肩を丸めるサンジに対し、もうひとりの当事者であるゾロは別段動揺した素振りもなく、普段どおりの仏頂面でしれっと女医と言葉を交わしている。

(クソッ、なんでンな堂々としてやがんだアホ)

自分ばかりがオロオロしているなんて、なんだか情けないし悔しい。

「じゃあ、そのつもりで」
「おう。世話になったなバアさん」
「ドクターとお言い若僧。…もう鉄骨の下敷きになるようなバカな真似はおしでないよ」
「ああ」
「そっちのの寿命まで縮んじまいそうだからね」
「―――俺?」

皺くちゃの指でひょいと指差されたサンジが、きょとんと主治医を見つめた。
 飄々と会話しているゾロを睨みつけていて、肝心の話の方はちっとも耳に入れていなかったサンジである。
ゾロとくれは医師は意味が解らず曖昧に笑うしかない青年に向かい、同時にハァと溜息をつき、

「「退院が決まった」」

揃えて放った一言に、サンジは飛び上がって驚愕を表した。

「マジ?!」
「マジだ」

勢い込んでゾロの胸倉を掴み上げるおでん屋に、苦笑しながらゾロが返事をする。

「三月にゃ跨っちまうがな。よーやく娑婆に戻れるらしい」
「いつだよ」
「来週の月曜?」
「来週の月曜…って、ああああ明後日じゃねェかあさって!」
「おいおでん屋、ちっと落ち着け―――あ」

興奮がピークに達し、乱暴にガクガクとゾロを揺さぶるサンジのまんまるな頭に、今度は容赦なく拳骨が振りおろされた。

「あだッ!」
「いい加減におし!嬉しいのは解るけどね、幾らバケモノ並に頑丈な男でも一応は入院患者だよッ」
「…スミマセン…」

消え入りそうに詫びるおでん屋を、我慢しきれなくなったゾロが盛大に笑い飛ばし、青年は恨みがましくそれを睨みつけた。








 重箱弁当は荷物になるのでパスしたサンジの本日の差し入れは、商売道具でもある特製の関東炊き―――所謂おでんだ。

「寒ィしな。ストーブ出てっから丁度イイだろ?」

いつのまにそこまで顔を利かせられるようになったのか、ちゃっかり厨房から大きな両手鍋を借りてきた青年は、やかんを降ろし、その替わりにたっぷりとおでんの入った鍋をストーブの上に置く。

「冷めちまッてっからな。一遍沸騰したら喰っていいぞ」
「おう」
「沢山あっから、相部屋のオッサン達にもすすめてくれ」
「…おう」
「何嫌そうな顔してんだよコラ。テメェがどんな大食漢でもこんだけの量を一人で食えるワケねェだろ」
「お前の作ったモンなら喰えねぇこたァねぇ」
「…嬉しがらせんなバカ。―――うっし。んじゃ俺ァそろそろ帰るわ」
「帰る?」

意外そうに聞いてくる男に、サンジは当たり前だろ、と返す。

「テメェが食うトコ見てからにするつもりだったけど、随分長居しちまった。日が暮れて雪がひどくなんねェうちに屋台開けてェもんよ」
「泊まってったらどうだ。どの道止みそうにねぇぞ」

ゾロの言うとおり窓の外は相変わらずぼた雪が降り続いている。
 幾分風がでてきたらしく、サンジが訪れたときよりも勢いを増しているように見えた。
けれどおでん屋はなんでもないことのように鼻先で笑う。

「ンなわけに行くか。おでん屋がこんな晩に商売しなくてどうするよ」
「そういうもんか?」

この天候では逆に商売あがったりになるのがオチだろうとゾロが首を傾げると、

「もー死ぬ、凍え死ぬ!っつー位すっげえ寒ィ夜は、すぐにでもあったけえもんが欲しくなるもんなんだよ」
「そりゃまぁそうだが…」

ダロ?とおでん屋がにかっと笑い、何とはなしにゾロはその屋台に客として座る自分を思い浮かべてみた。

 しんしんと静かに降り積もる雪の中に浮かぶガード下の明かり。
屋台から上がる白い蒸気とおでんの匂い。
 震えながら両手を擦り合わせて赤暖簾をくぐる客を迎えるのはきっと、鍋から上がる湯気よりもあたたかいこの男の笑顔だ。

「―――悪くねぇ、かな」
「ま、トーゼン売り上げは落ちっだろーけど、そこを開店すンのが料理人の心意気って奴さ。それにこんな日は、外で呑むかわりにウチで待ってる奥さんたちへの土産にしてえって親父も多いんだぜ?」

背中を向けて鍋を覗き込みつつそんなことを言ってみせるものの、客足は鈍いに違いない。

 それでもサンジはいつもどおりに商いを続けるのだ。
訪れるかもしれない、あたたかいものをもとめる誰かの為に。

 こいつらしい、とゾロはそっと相好を崩した。
そこでふといいことを思いついて、ベッドサイドに置かれたワゴンの引き出しを開け、取り出したメモ用紙にうろ覚えの自宅住所を書き殴る。
 仕上げにレードルで鍋をひと混ぜしたおでん屋は、さて、とコートを羽織り足元のリュックを肩に掛けた。
それからきょろきょろと辺りを見回し周囲に人気がないのを確認すると、ベッドまでそそくさと戻って、

「明日は早目に来る。―――退院の準備、手伝わせてくれるか」
「頼む」

即答した男に満足しながら、薄い唇に自分のそれをそっと重ねた。

「じゃあな」

笑って踵を返そうとすると、ニヤニヤと笑った男から紙くずを投げつけられる。

「持っていけ」

咄嗟に手を伸ばして受け止めたが、ゴミにしては重い。
 くしゃくしゃに丸められた、いびつなラグビーボール状のそれを開くと、角ばった文字で書かれた判読も難しい漢字と、数字の羅列。
 くるまれていたのは鈍く光る一本のステンの鍵だ。

「…なんだこりゃ」
「俺の部屋の鍵と、場所」
「アァ?」
「店仕舞いしたらそんままそこで寝ろ。俺も三ヶ月帰ってねぇし、あちこち埃は被ってっだろうが、ただ寝る分にゃ問題ねぇ」

近いんだから自分の家に泊まれ、とまるで当たり前のような顔をして言う。

「え、いらねぇよ別に!ガキじゃあるめぇし、テキトーに帰」
「テキトーに帰られちゃ俺が困る。どうせ日曜は定休だろ、ゆっくりしてけ」

当然遠慮するおでん屋の言葉尻を奪ってゾロは畳み掛けた。
 テキトーに知らない男の部屋にもぐりこまれでもしたら厄介だとのいらぬ危惧を含んだ言葉には、有無を言わせぬ強さが込められていて、結局サンジはゾロの親切めかした申し出を承諾するほかなく。
 急に険しい顔つきになった男を訝しく思いつつ、おでん屋は病室を後にした。








 現金なもので、外に出た途端その実感が湧いてきた。

(退院するんだと)

大雪で視界ゼロに等しい通りを、大荷物を背負った青年が猛ダッシュで走り抜ける。

(戻ってくる)

自分の店の、あの席に、あの男が。

(戻ってくる)

頬の緩みが止まらない。
 外は身を千切られるような寒さだが、高揚した気分の妨げにもならぬ。

(明日は休みだし。折角だから掃除しといてやるか。着替えとかもいるよな)

手袋の中でぎゅっと握り締めた鍵が、まるで宝石のように思えた。

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 (2003.12.03)

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