春、間近 3


3 隣人


 12時ギリギリまで営業を続けたが、さすがにこの雪ではゾロの言うとおり売り上げは芳しくなかった。
 いつもは粘る常連も帰路を危ぶんだか早々に引き揚げ、最後の客はふた袋ほど持ち帰りを詰めて帰った帰宅途中のサラリーマン。
こんな雪の日に大変そうだとサンジが労うと、鼻の頭を赤くして「こんな日だから余計美味いだろうなァ」と笑ってビニール袋を持上げた。
 暖簾を片付けてからおでん鍋の火を落とし、いつものように店仕舞いを始める。
客足を想像しての下拵えが的中したお陰で、残り物はほとんどない。このあと自宅に帰る訳ではないから、丁度サンジ一人分の夕食がわりになるくらいだ。

(この寒さじゃ着く頃には冷えちまってるだろうが…)

見るからに料理に縁のなさそうな男だが、住んでいるところは顔に似合わぬ瀟洒なマンションだった。あれならちゃんとしたキッチンがついているだろう。
 電車も使えず徒歩で仕事場に到着したサンジは、店開きの前にまず大雪の中うろうろとゾロの自宅を探した。夜間では電柱の住所表示が見えなくなってしまうからだ。
 近いというのは喩えではなく、おでん屋から10分もしない場所にその建物は見つかり、名前負けしていない風体にサンジは目を丸くした。

(似合わねェトコに住んでやがるぜ)

ベッドの上でふんぞり返ってメモを渡したゾロの顔を思い出したおでん屋の口元が、ふにゃりと緩む。
 今日は何をやっていても万事この調子で、カウンターの向こうから「どんないいことがあったんだ」と散々からかわれていたサンジである。
 これから初めて訪れるゾロの部屋。
肝心の主は不在ではあるが、だからこそ鍵を託されたのが嬉しかったし、あの男が暮らしていた部屋が気にならないわけがない。

(どーせ散らかってんだろうなァ)

ゾロが入院してからはかなり時間が経っている。
 その間本人が病院を離れたのは、この屋台までサンジを追ってきたあの一度きりらしい。会社の同僚が何度か仕事で訪れてはいるようだが、無人には違いなく。

(こっち片付けたら、あっちもやんねェと)

アァ面倒くせェと一人ごちながらもその表情は喜びを隠せない。ニマニマと極寒の中おでん屋は常にないハイペースで店を片付た。
 屋台の周りに張り巡らせた風除けの厚手のビニールを折り畳み、体に突き刺さる寒風にウウウ、と身を竦めながら戸板を嵌めこむ。
太いチェーンをしっかりと屋台に巻きつけて、大振りな錠前を掛けてしまえば本日の業務は全て終了だ。
 病室でゾロから投げ渡された鍵は、Tシャツにエプロンといういつもの戦闘服に着替えるときにコートからズボンのポケットに仕舞いなおしていて、サンジは酔客のあいてをしながら何度もそれに触れた。
尻ポケットからそれを取り出して、かじかむ指で慎重に手袋の間に入れる。
 手書きのメモは住所だってもう諳んじられるほどに読み返し、今は皺を伸ばされて財布の間に挟まっていた。
 全くもってあの男にベタ惚れなおでん屋さんなのだ。

(うっし。…行くか)

しんしんと振り続ける雪の中。
 サンジは鼻歌でも歌い出しそうな顔つきで軽くなったリュックを背負うと、ゆっくりと積もった雪にその一歩を踏み出した。









 夜中にトツゼン腹が減るのは良くあることだ。そしてそういうときに限って、手元にないものが食べたくなる。
 その時のギンがまさにそれで、事務所からわざわざ自分の足で近場のコンビニまで買い求めたが、あいにくと売り切れ。
 この大雪にとても他のコンビニまで行く気にはなれず、舌打ちしながら事務所へと戻ったギンである。
 彼の勤め先である『事務所』があるのは、社長のクリークが税金対策に建てたマンションの一室。
派手好きなクリークは最近流行のデザイナーズ・マンションを目指して一流の設計士に図面を引かせたが、築7年目の未だに社長の思惑に反して空き室が目立つ。
 物件そのものはたいしたものだが、ギンの勤め先は社長と組長が同義語であるような会社だ。
一目見て筋者だと解る人間が頻繁に出入りするマンションに住みたがる金持ちなど、そうそういるわけがない。

(まぁ素人さんと四六時中鼻つき合わせんのは、こっちだってゴメン被るがな)

フン、とギンは少々赤くなった鼻の下を擦る。
 クリークとギンはもともと、古い歴史のある暴力団の構成員だった。
充分なだけのシマと共に小さいながら組を任され、裏社会では年齢からは考えられないほどの地位に登りつめていたと云っても過言ではない。
 しかしこのご時世でどんどん規制が厳しくなり、いよいよ本家も解体か、というその直前。
ドンと呼ばれた男はギンをはじめとする腹心の部下を連れて、組にいたころ溜め込んだ小金をばら撒きながら突然に会社組織として独立した。
 金融会社とは名ばかりのヤミ金。
人には言えないような悪どいやり方で、会社はどんどん業績を伸ばした。今では支店を幾つもかかえるちょっとした企業だ。
 ギンはハァ、と僅かに溜息を落とす。
ヤクザがのさばる時代ではないとは、自分でも解っている。
どんな手を使ってものし上がろうとするクリークの生き様に惚れ込んで、古参の幹部を裏切るようにして組を出た。
 当時若頭と呼ばれたギンに、今は専務という肩書きがつき、稼ぎはその頃の何倍にも膨れ上がった。
 しかし武闘派として慣らした男にデスクワークは正直つらい。
会社を興した直後は払いの悪い客の家に怒鳴り込んで暴れまくったり、商売敵と小さな抗争があったりでなかなかに体を動かしていたが、最近ではすっかり残務整理に追われる毎日となってしまった。全くもって専務とは退屈な職業である。
 これからもこんな日々が続くのか、とギンは薄い唇をぐっと噛み締めた。
苦虫を噛み潰したような顔のままで、大理石のエントランスをくぐる。

 途端に春の陽気につつまれたような気がした。

マンションの入り口は冷たい木枯らしが吹き込まないだけでもかなり暖かく感じるが、目の前で閃く金色はそれをかなり助長したかもしれない。

「あーっと、スイマセン。この玄関ってどうやったら入れンのかなあ」

ここで一度も見たことのない顔だった。
固く閉じられた自動ドアの前、やたら細身な青年が少々困り顔でギンに微笑んでいる。









(こりゃあなんて…)

きれいな男だろう、とギンは眩暈にも似た衝撃を受けた。
 きらきらと生命力に溢れた青い瞳はまるで、

(こないだ払いの悪いOLから借金のカタに取り上げた宝石みてえだ…)

と少々不適切な喩えでもって、その輝きを表現した。
 マフラーに半分埋もれた顔は小作りで雪のように白い。それを縁取るのは男にしては長めの金髪で、さらりと流れて端整な顔の半分を隠している。
 寒いからだろうか、鼻先と頬だけはうっすらと赤らんだところが、なんとも可愛らしくギンの目に映った。

「?どうかしたかい」

至近距離から怪訝そうに覗きこまれて、ギンははっと目を見開いた。
 見かけない顔、まして時刻は深夜。
まさかとは思うがヨソの組の鉄砲玉かも知れないとギンは一瞬身構え、次いでもう自分は『会社員』だったことを思い出した。…バカバカしい。
 自分に苦笑しながら、

「―――中に用事があるなら、そっちのパネルで部屋番号を押すといい。インターフォンになってるから、内側から開錠してくれるだろう」
「…あー、実は部屋には誰もいないんだ。俺ァ留守番みたいなモンで」

バツが悪そうに肩を竦めながら、青年は手に持った鍵をギンに見せた。

「なんだ、鍵を持ってるなら話は簡単だよ。パネルの端に鍵穴があるだろう?そこに差し込んで回すだけでいい」

あ、と青年はぱっかり口を開けて、幾分慌てながらそれを実行した。
 ピピピ、と微かに電子音が鳴ると同時に自動ドアが開き、青年はおおお、と大仰な反応を示す。
まるで稚い子供のようだ、とギンはなんだか微笑ましい気持ちになった。

「サンキュー助かったぜ」
「たいしたことはしちゃいないさ」

並んで一緒に自動ドアをくぐり、ギンはそのまま一階の奥にある事務所へ、青年はエレベーターへと足を向けたが。

「―――おいアンタ!良かったらこれ」
「…?」

不意に背後から声を掛けられて振り返ると、青年は背負っていたリュックから何やらゴソゴソとビニールの包みを取り出すところだった。
 たぷたぷと揺れるところから、それはどうやら汁物の類らしいとギンは見当をつける。
リュックにそんなものを入れているとはなんだか変わった青年だ。
 思わず眉を寄せたギンに、青年が晴れやかに微笑んで云う。

「俺さァ、実は駅前の屋台でおでん売ってんの。残りモンで悪いけど」
「おでん…」
「おう。自慢じゃねェがクソ美味ェから…まぁ騙されたと思って喰ってみろよ」

な?と。
 小首を傾げるその仕草に―――ギンはかつて、抗争の最中右肩の上を銃で撃たれた瞬間を思い出した。
 たった今、目の前の青年から繰り出されたのはピンク色の弾丸。
それはギンの心臓を真っ直ぐに打ち抜いて、かつて魔人と恐れられた男はがくがくと己の膝から力が抜けるのを感じ。
 こんなことはありえない。
撃たれたその時ですら自分は鮮血を零しながら、短銃を手にした相手を血塗れにしてのけたのに。

「じゃ、おやすみ!」
「あ、ああ」

ありがとう、と小さく返すころには、青年の姿はエレベーターの中に消えていた。
 そしてギンの手に残ったのは、かすかに暖かいおでんの入ったビニール袋。

(これは運命だ)

ギンの全身に、瘧のような震えが走る。
 突然どうしても食べたくなって、でも手に入らなかった幻の食材が手の中にあった。
思いがけず入手できたそれを両手にしっかりと抱きかかえて、ギンはじっと閉じられたエレベーターを見つめ続ける。
 己の力だけを頼みに生きてきた男のそれは、遅まきの初恋、だったかもしれない。

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 (2004.02.09)

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