春、間近 4


4 温度差


 小さなエレベーターホールから出てすぐに、目的の場所はあった。
廊下の幅に比べて部屋数が極端に少ないのは、それだけ中が広いということかとちらりと頭の端で思う。一人暮らしの癖に贅沢なマリモだ。
 表札もなにも出ていないが、部屋番号からそこで間違いないだろうと見当をつけたドアの前に立ち、サンジはゆっくりと銀色のキーを鍵穴に差し入れた。
 ほんの僅か手首を捻るとかちりと開錠して、ほっと息をつく。
たったこれだけのことに随分と緊張していたようである。

「お、邪魔しマース」

誰もいないとわかってはいてもつい口に出してしまうのは性格ゆえか。
 重いドアを少しだけ開けて細い肢体を滑り込ませ、やたらドキドキする心臓を叱咤しながら、後ろ手に鍵を掛け直した。
 無人の室内がしん、と静まり返ってサンジを迎える。

「…ッ…」

何故だか一瞬、息が詰った。
 暗闇に目を凝らしつつ側壁を手探りしてみると、玄関照明のスイッチに指先が触れる。
ぱっと灯った蛍光色に浮かび上がった広い玄関には、足元に投げ出されたままの黒いショートブーツとランニングシューズ。
 視線を上げると玄関マットも敷かれぬ素っ気無く細いホールの両脇に、四枚のドアがくっついている。思ったとおり広いマンションだ。
 ホールの先はダイニングキッチンとリビングだろうか。開け放たれたままのドアの先にキッチンへの入り口が隣り合っているようで、最奥と思しき窓ガラスが玄関の明かりを反射してちらりと光っていた。
 やわい明かりに後押しされ、サンジは冷え切ったブーツを脱いで、そろりと抜き足で無人のマンションにあがり込んでいく。

(まるでコソ泥だぜ)

なんだか己の態度が情けなくなりつつ、へにゃっとグル眉を下げて短い廊下を進んだサンジが目にしたものは。

(…んだこりゃ…)

薄暗い室内の、あちらこちらになにやら…小山がある。
 というか、モノばかりで床が、ない。

(まさか…いねェ間にマジで空き巣に入られたってこたァないだろうな?)

顔を顰めてそう考えたが、このマンションに入るときの苦労を思い出してイヤそれはない、とサンジは首を振った。
 オマケにこの部屋は7階だ。泥棒が窓から侵入するには高楼すぎる。
はっと気付いて、サンジは壁に据え付けられた何個ものスイッチを一斉に押した。即座に天井の室内灯が部屋中を煌々と照らし出す。
 その眩しさに一瞬目を細め、

「―――ひでェ」

あんぐりと口を開け、己の瞳に映る光景に呆然とそう呟いた。








 ありえないくらい贅沢で、ありえないほど汚い部屋だった。
使い勝手の良さそうな広いキッチンと充分なダイニングスペース、続くただっ広いリビングの隅にはレザーのソファーセット。
 床に直に置かれたのは不似合いなほど小さい14型のテレビでかなり異質だったが、部屋自体がかなり異質だったので、驚くには今更だったかもしれない。
 何せ家具の類はそれ以外には、ダイニングテーブルくらいしか見当たらないのだ。
そのテーブルは一人暮らしにしてはやたら大きく、六人掛けのうち一脚だけがナナメに引かれたままなのがなんともだらしない。
 どうやらそこがゾロの指定席らしく、テーブル上にはいつのものとも知れぬマグカップとカビの塊になった―――かつて食パンだったと思しき物体が放置されている。
 食台らしき役目を果たしているのはそこだけで、テーブルのそのほかの部分には、散乱する書類とペン、消しゴムのカスらしきゴミ、それから積もりまくった埃。
 サンジは目の前の惨状にうっと一瞬仰け反り、やがて気を取り直してなんとか足場を確保しつつ、よたよたとよろけながらリビングの奥へと歩を進めた。
 信じがたいことに床の上はテーブルの上の書類の倍以上はあろうかというサイズの巨大な用紙で文字通り埋め尽くされている。
 門外漢であるサンジが目にするのは初めてだったが、おそらく建築図面の類に違いない。
薄い青味がかった紙に、ビルらしきものの断面図や間取りが描かれてるものがほとんどだ。
 それらの間に垣間見える床は、サンジが一歩進むたびに足跡がくっきりと残る。多分靴下の裏はもう真っ黒だ。
 サンジはううむ、とちんまり生えた顎鬚に手をやった。
これは家人が三ヶ月近く留守にしたせいではなく、ゾロが生来無精者だということなのだろう。
 男の一人暮らしは一般的にキタナイモノと決まっているようなものだが、サンジ自身はどんなに忙しくともここまで散らかしたことはない。
 最も粗雑なようでいて実のところかなり几帳面なサンジと比べられては、ゾロが可哀想というものだったが。

(まー…これでキレイだったらキレイで複雑なんだろうけどなァ)

とりあえず女性の影はサッパリで、交際はじめたてのサンジは思わずほっと安堵の溜息をついてみたりして。

(つーかこれで、良く他人を家に上げる気になれたもんだ)

そう考えて、サンジはあー、と視線をゴミだらけの部屋に彷徨わせた。
―――他人じゃないから、ならば嬉しかったのだけど。
 仕事の関係で部下だという小柄な眼鏡を何度かここまで使いにやらせたようだし、元よりそういったことに拘るような男でもないのだろう、ロロノア・ゾロという人間は。

「さて―――どうしたもんかね…」

退院前に少しは片付けてやったほうがいいだろうと思ってはいたが、ここまで勝手が違うとどこから手をつけていいのかすら考えあぐねてしまう。
 散乱しているのはどう見ても仕事の道具で、重ねて並べてしまっていいものかどうかの判断もつきかねた。お互い子供ではないのだから、ただ掃除をしてやるのとはワケが違う。
 これは自分が触れてはいけないものだ、とサンジは肩を竦めつつ、取りあえず一服するためにコートの胸ポケットに手を伸ばし―――定位置に収められたボックスに触れる前にくっとその拳を握った。

(禁煙、ってこたァねェだろうな?)

ぐるりと巻いた眉尻を情けなく下げて、青年はチッと舌打ちした。これでもう、煙草も吸えない。
 散らかりまくった部屋は当然歓迎の雰囲気とはかけ離れていて、主の不在のままここを訪れた自分は、この部屋にとって闖入者でしかないのだと否応なくサンジに気付かせる。

 胸のあたりがつきん、と締め付けられた。
指先が震えて、馬鹿みたいに緊張しているのが解る。

 サンジが知っているのは、おでん屋のカウンター越しに横目でそっと様子を伺い続けたあの男だけだ。
傷だらけで自分を追いかけて、「誰にも渡したくない」と抱き締められた。
想いが通じたのが嬉しくて、それからは毎日男の入院先に押し掛けて。
 退院に向けリハビリに精を出す男は、そんなサンジを当たり前のような顔で迎え、そうすることが当然だとでも云うように躊躇いなく手を伸ばしてくる。

 会えなかった時間を取り戻すようにキスを交わす自分たちはそのくせ、
―――まだお互いの名前くらいしか知らない。
そんな解りきったことが、今更のようにサンジの心に重くのしかかった。

 ぼんやり目を遣った窓の外ではいまだ小雪がちらついている。
外よりは幾分マシとはいえ、暖房も入れていない部屋は底冷えのする寒さで、サンジはぶる、と体を震わせた。
 この部屋は…どうにも気分が落ち着かない。
足を踏み入れた折からずっと感じているかすかな違和感は、同時に疎外感だった。
自分はまだ、ここに馴染めるほど、『ゾロ』に馴染んでいない。
 鍵を受け取ったときの高揚した気分は、室温にとともにすっと冷えてしまっていた。

「―――寝る、かな」

滅茶苦茶なままの部屋から目を逸らすようにして、サンジはリビングから続くドアのひとつに手を掛けた。
 予想通りそこは寝室で、シンプルなベッドが壁にくっつけるようにしてぽつんと置いてある。
纏めてクリーニングにでも出すつもりだったのか、反対側の隅にスーツやらワイシャツやらが何枚もぐしゃぐしゃの状態で放置されていて、サンジは苦笑をもってそれを見つめた。
床が見えるだけこの部屋はマシだ。
 背負ったままだったリュックを降ろして、脱いだコートをその上に載せる。
服のままで冷たいベッドにごろり、と横になってみた。
 普通ならとっくに寝入っていておかしくない時間帯ながら、普段完徹で朝を迎えるサンジだから、当然眠気が襲ってきたわけではない。
 やることがないからそうするか、と思っただけだ。

(明日は早めに、アイツんとこ行こう)

どの道こんな部屋に病み上がりの人間を戻すわけにも行くまい。
片付けは本人に聞けばやりようもあるだろうし、取りあえず夜が明けるのを待とう。
 そう考えると少し気が楽になり、サンジはごそごそと布団にもぐりこんだ。
長時間使われなかったせいか、はたまた元からそうなのか、冷たく湿ったその感触は気持ち良いものではなかったが、かすかに残る汗の臭いは確かにあの男のもので、消毒液の立ち込める病院でのゾロしか知らないサンジの鼻腔を懐かしく擽る。
 連鎖反応でちょうど昼間、ゾロに抱きすくめられるようにして眠りに落ちてしまったことを思い起こし、サンジはうわ、と慌てて小さな頭を振った。
 高めの体温や力強い腕、自分とはまるで違う、厚みのある体躯。
今頃になってそのときの感触に刺激されはじめるとはサンジにも信じがたいことで。
 あの状況で良くもぐっすり眠れたものだ、と今更ながら自分の無神経さに愕然とする。

(ってヤベエだろそりゃ。俺ァアイツほどサカってねェぞ!)

頭と同時に下半身にまで集まりはじめた熱を精神力で四散させながら、サンジはうう、と爪先を擦りあわせた。これでは10代の若僧だと自分が恥かしくなる。
 可愛らしくも柔らかくもない男の腕を恋しがるなど、30年近いこれまでの人生の中でも今回が初めてのことだったが。

(―――そういや…)

再会以来ずっと気になっていることを、不意に思い出した。

(『男が欲しいのなら自分にしとけ』―――確かそう、アイツは云ったんだっけ)

考えてみれば随分とおかしな台詞だ。果たしてゾロの目に自分はどんな風に映っているのだろう。

(そんな風に、見えンのかね俺ァ)

だからあの男は、あんなに強引なのだろうか。
 自分のどこがそう思わせるのか疑問だが、そうだとしたら心外な話だ。今も昔も自分はまるきりのストレートなのだから。









 二人きりの病室で、時折、射るような視線を感じる。
目前の男が寄越すのは、隠すことのない欲情や独占欲で、強すぎるそれがサンジを戸惑わせる。
 求められるのに答えるまま相手の性器にまで指を絡めたサンジはしかし、自分のそれにゾロを触れさせたことはない。
いくら惹かれあっているとはいえ性欲が先行する年でもないし、自分たちは同性だ。
 ゾロが焦る理由がサンジにはさっぱり解らなかった。相手からの愛撫を拒むのはそのせいだ。なし崩しに情動に溺れるのが許されるほど若くはない。
 けれど、もっとあの男に近づきたいのも確かで。

(難しく考えねェで、とっととアイツのもんになっちまやイイのか)

違うだろそりゃ、と頭の端でツッコミつつ、でもそうすればこのおかしな気分も消えてなくなるかもしれないとも思う。
 自分の居場所を見つけられない部屋で、サンジはそっと瞼を下ろした。

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 (2004.02.16)

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