春、間近 5


5 変化


「んだ。顔色悪ィな」
「…そうか?」
「ちゃんと寝てねぇのかよ」

そうゾロが尋ねるのに、「あー、うん」とサンジは薄く微笑んで返した。
 眠れはしたが目覚めは最悪だった―――なんて言えるわけがない。







 なかなか寝付くことが出来ずに、ようやくうとうとしかけたのが明け方。
けれどカーテンを閉め忘れたせいで昇ったばかりの陽光がサンジの目をしっかりと焼いてくれた。窓辺の雪に反射したそれの威力は物凄く、結局きちんと寝たのは小一時間にも満たぬ。
 覚醒したサンジの目に入ったのは昨夜見たままの、散らかったゾロの部屋だ。
明るい光の下で見てもそこはやっぱりどこか余所余所しくて、張り切って活躍するつもりで訪れたおでん屋は、結局何もせず逃げるように部屋を出た。
 積もった雪を踏みしめながら長い時間をかけ徒歩で自分の家まで帰って、それからゆっくり長湯して。
冷えきった四肢を暖かいお湯に伸ばして、ようやく人心地つくことが出来たのだ。
 着替えたサンジはそれからいつものように差し入れの重箱を用意し、約束どおり昼前にはゾロの待つ病院へと足を運んだ。
 その足取りが昨日とは打って変わって重かったのは、溶け始めた雪で足元がぬかるんでいたからだけではなく、ゾロの部屋で感じた言いようのない寂寥感のせいだろう。
―――それでもベッドの上で昨日までと同じように自分を見つめる男に、ほのかな安堵を覚えはしたけれど。







 おでん屋からほれ、と暖かいお茶を差し出されたゾロは、ベッドに設置された簡易テーブルにそれを恭しく乗せた後、恐らくここで食べる最後の弁当に向かい大仰に手を合わせた。
この差し入れが供されたのはほんの二週間ばかりだが、これと製作者のおかげで退屈だった入院生活が一気に華やいだ気がする。
 長い塗り箸を口に咥えて蓋を開けると、おでんの屋台で食べていたときとはまた趣の異なった菜がきっちりと詰め込まれていて、すっかり餌付けされた男はにんまりと頬を緩めた。
思いがけない大怪我ではあったが、そのおかげでみごと料理上手な恋人を手に入れることが出来たのだからまさしく怪我の功名である。
 しっとり煮含められた里芋からはかすかに柑橘の香りがした。煮物の上にぱらぱらと散らされた糸のように細く切られた柚子を箸先でつまみあげ(器用なもんだ)と感心しながら、食事を見守る青年を振り仰ぐ。

「俺ンとこは解りづらかったか」
「…あ?」
「行かなかったんだろ?お前の仕事が終わるなぁ夜中だしな、考えてみりゃそれから家探しってなぁ無茶な話だった」

いやあの距離で解りづらいとか思っちゃうのはテメェだけだろ、と茶化そうとしたサンジはしかし、そのまま口を噤んだ。
 ゾロはどうやらサンジが自分の家を訪れなかったと思いこんだようだ。それならそれでこちらも都合がいい。

「―――雪がひどくて、視界が悪かったから。悪ィな、鍵まで借りたのに」
「俺が勝手にしたことだから気にすんな」

言いつつもなんとなくガッカリした顔になったゾロに内心申し訳ないと思いつつ、サンジはちょっとだけほっとした。好意を無下にした形ではあるけれど、余計なことを言ってわざわざ気を悪くさせるのは忍びない。
 しかしあそこをあのままにしておくのはもっと忍びないことであるわけで、おでん屋は思いついた風を装いつつ、さりげなくリサーチに臨むことにした。

「それよりテメェ、迎えの当てとかってあんの?」
「おう、コビーが外回りのついでに車回すっつうから、その足で会社に顔だけ出してくる。こりゃなんだ、梅か」
「鶏に合うだろ?―――あのメガネ君か。なぁ、テメェんトコ…掃除とか、しといたほうがいいよな?」
「あー…そういや事故ったなァ工事の真っ最中でな。あん頃は工事が押して切羽詰ってたんだ。ブッ散らかしたまんまだったからすげえコトになってっかもしれねえ」
「すげえコトってなんだ」
「………」
「………」

お前やっぱ行かなくて正解だった、と真顔で言われてサンジは大笑した。
 ゾロは憮然としながら、

「…まあナンとかなんだろ。俺ぁ寝る場所さえありゃ構やしねぇし」
「イヤそこは構え。仮にも病み上がりだろうが」

埃だらけだったあの部屋の惨状を思い出してサンジはこっそり嘆息した。もしも夏場だったらあれにカビが加わって更に物凄いことになっていただろう。
 わざとらしく肩を竦め、

「あんま汚かったら帰っても落ち着かねーぞ。…どうする?」
「何を」
「いや、―――俺でよければこれから片付けに行ってやるけど。触っていいモンとダメなもん、それだけ教えてくれりゃ後は勝手になんとかするし。それとも…」

迷惑か?と躊躇いがちに問われて、ゾロは口の中にちらし寿司を詰め込んだまま「あ?」と眉を顰めた。おでん屋の言葉の意味がいまひとつ解らない。
 迷惑どころか、

「願ってもねぇ話だが―――お前、なんかあったのか」
「え」

きょとん、とした顔にはなんだか覇気がなく、どうも今日のおでん屋はおかしいとゾロは顎の下を掻いた。常なら明るく輝く瞳にまるで力が入っていないような気がする。
 サンジは首をかしげながら、

「別に何も…?あ、着替えいるよな。帰りにまたコッチ寄るから、そんとき持ってくる。財布は持ってるか?」
「カードしかねぇ」
「上等だ。一階にCD機があっから、支払いはきっちり済ませろよ?あとは…女医さんとたしぎちゃんには挨拶して、ああ、ナースステーションには何か菓子箱でもあったほうがいいか…これもついでに買ってきといてやらァ」
「あ?お前は来ねぇのか」
「ん。悪ィがちっとムリだ。退院は午前なんだろ?…朝は仕込みがあっから、タイミング合いそうにねェし」

この返事を受け、やはりどこか変だとゾロは確信した。
 自惚れるつもりはないが、昨日までの彼ならば何を差し置いても自分の世話を焼きたがっただろう。 先ほどの言いまわしも遠慮しているというよりは、まるで―――

(ちっと待て、ビビッてんのか?)

まるで何かに脅えているように思え、ゾロはすっと瞳孔を細めてサンジを観察した。口調も見た目もいつもどおりだが、やはり何かが違うとそう感じる。
 杞憂に過ぎぬ思い付きではあったが、勝負どころでの勘には自信がある。ゾロはゆっくりと箸を置き、傍らに立つおでん屋にすっとその手を伸ばしてみた。
そして指先が細い手首に触れる直前、僅かだが彼の唇が引き結ばれたのに本気で驚く。

(どうしたってんだ!)

たった1日前は腕の中で穏やかに寝入っていた青年の変わりようが信じられず、思わずぽかんと口を開けたゾロに、サンジは慌てて笑顔を取り繕った。
 中途で放り出されてしまった重箱を指差し、

「さっさと喰え。俺ァこれから大掃除だからな、余計な相手は出来ねェぞ?」

ふざけ半分の台詞にはしかし、彼の本音が見えた気がした。
 掴んだままの腕に力を込めてしまったのは、恐らく本能の成せる技だ。

「余計なことじゃねぇだろ」
「…は?」
「俺に触られるのは嫌か?」
「っオイ待て、んなわけ」

ねェ、と言おうとしたが、何故かサンジからはそれ以上言葉が出てこない。
 白い顔がみるみる青褪めていくのにゾロは軽く舌打ちし、肘で簡易テーブルをずらしながらぐっと青年の体を引き寄せた。

「ゾ…―――っ!」

驚愕に見開かれた青い瞳を強く見据えたまま、言葉を許さぬ勢いで口付ける。
 腕の中に抱き込んだおでん屋はまるで生娘のように体を固くしていて、ゾロは唇を重ねたままそっと彼の金髪を撫でた。それから肩を、背中を。

「んっ、…っふ…」

むずがる子供をあやすように根気良くそれを続けていたら、強張っていた全身から少しずつ力が抜けていく。

(怖がるな)

 深まる一方の口付けに、咎めるようにシャツの胸元を掴んだ青年の指はやがて諦めたように背中に回され、瞼を閉じたおでん屋の頬にぱあっと赤味がさしたのを(よし)と確認して、ゾロはようやく唇を離してやった。
 揶揄うように至近距離から潤んだ青い目を覗き込む。

「確かにイヤっつーワケじゃなさそうだな」
「ンの、クソったれ…せめてメシが終わるまで待てねェのかよ!」

額をくっつけて決まり悪げに腕の中で身を捩じらせるのは、スキンシップに弱いいつもの恋人だ。
 ゾロはニッと口角を上げ、不貞腐れた悪ガキのように尖らせた彼の唇を軽く噛みながら、

「待てるワケがねぇだろ?」

当惑を隠しもしない顔に両手を添えて、泳ぎかける目線をしっかり捕まえた。

「明日の夜は、俺がお前んトコに行く」
「…あぁ」
「張り紙用意しとけ。店仕舞いしたら俺が張ってやっから」
「?」
「『臨時休業』。常連のオッサン達にコトワリが必要だろ」

ハッと息を呑んだ青年を、もう一度強く抱きしめる。
サンジが何を考えているのか知らないが、今更逃がすつもりは欠片もないのだ。

「―――帰さねぇぞ」

小さな耳に唇を寄せ、有無を言わせぬ響きを込めて囁いた。

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 (2004.05.12)

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