コックさん 3





 朝食を終え、誰もいなくなったラウンジ。
シャツの袖をまくり上げたコックがシンクに立ち、洗い物に向かって一心不乱にスポンジを動かしている。

(ナミさん、ロビンちゃん、ゴム、鼻、トナカイ)

5枚のパーティプレートを洗い、

(ナミさん、ロビンちゃん、ゴム、鼻、トナカイ)

5枚のスープディッシュを洗い、

(ナミさん、ロビンちゃん、ゴム、鼻、トナカイ)

5枚のサラダソーサーを、5枚のデザートプレートを、5本ずつのカトラリーを、5客のカップとソーサーを洗う。
 重ねて置いたそれを洗剤の泡が残らないようによく濯いで水切り籠に立てかけ、きゅっと水道を止めるとナプキンでそのひとつひとつを丁寧に拭き上げた。棚に仕舞う段になり、ぼんやりテーブルに残されたままの食器に視線を落とす。
 きれいなまま端に置かれているのは、朝食で使われることのなかった食器ワンセット。

「…クソったれ…」

苦々しい気持ちでそれを掴むと、洗ったばかりの食器と重ねて棚へと仕舞いこんだ。
 パタンと食器棚の扉を閉めると、シャツの胸ポケットから煙草を取り出して一服。
フーッと煙を吐き出しながらぼんやりと思う。
 朝食を放棄した剣士は今頃どこを彷徨っているのか。度を越えた方向音痴であるゾロのことだから、おそらくまた迷子にでもなっているに違いない。
 食事前にひょっこりラウンジに現れた緑頭を思い出した。そういえば、正面からまともにゾロの顔を見たのは久しぶりだった気がする。
 哂っていた。だが、確かに怒っていた。ここしばらく避けるような素振りを見せていた自分なので、いい加減腹に据えかねたのだろう。

(でも、メシまで喰わねェこたァねェだろうが)

自分との軋轢であの剣士が一食抜いたのだと思うと、流石のサンジも落ち込んだ。
 ぐるりと巻いた眉毛がこころもち下がり、

「ヤベエよなァ…」
「何がやばいの?」

ハッと顔を上げると、ドアに身を凭れ自分を見ているナミと目が合った。

「いやァ別に!―――ナミさん、今からお出かけ?」

いつもより心もち高めのヒールとウェストバッグを着けた少女にニッコリ微笑みながら尋ねる。この島で溜まるログは1日だというから、貴重な上陸時間はあと半日。それでも気の張ることの多い航海士には束の間の休息となるだろう。

「うん。片付け任せちゃってゴメンね」
「コレは俺の仕事だからね。…ゴムはメシの後ソッコー出掛けたみてェだけど、ロビンちゃんと?」
「ロビンももう行ったわ、ウソップは船番。そういうわけで、サンジ君にエスコートお願いしていいかしら?」
「ナミさんのご指名とあらば喜んでデートさせて頂きますとも!」
「デートじゃないわよ。サンジ君は下僕なの。しかもタダ働きの」
「そんなシビアなナミさんも素敵…あ、だけど俺」
「買出しなら付き合うから。チョッパーなら荷物運びにもなるでしょ」
「そうして貰えると助かるよ。ま、俺としてはナミさんと二人っきりがイイんだけどなァ〜?」
「五分で支度してね」

ナミのすげない物言いはいつものことだ。勿論、とサンジは椅子に引っ掛けた上着のポケットからネクタイを取り出しビッと締める。
 のどかそうな小島だが、山賊海賊が横行するこの時代、大切なレディを初めての場所で一人歩きさせるわけには行かない。買出しも早めに済ませて置きたかった所なのでナミの申し出はサンジにとっても好都合だ。
 さっとジャケットを羽織るとナミに軽くウィンクしてみせた。

「昼食は各自島で摂るように云ってるから、夕方までゆっくり出来るわよ?コックさんは夜までお休みね」

にこやかに微笑う少女に「ありがとう」と返しながら、ナミの言葉を聞いていない筈のクルーをちらりと考え。

(―――戻ってきても、昼飯はねェぞ?クソ剣士め)

今頃迷子にでもなってんだろうけどなァ、とフィルターぎりぎりになった煙草を消しながら思った。







 さて。

(どこだここァ…?)

お約束どおり船を降りるなり迷子になった剣士は、あてもなく木々の間をうろつき回っていた。島の中心で真昼間から酒でも呑もうと思っていたのに、どういうワケかいつの間にか民家もない森の中である。
 頭を上げると鬱蒼と茂る青葉の隙間からかなり高くなった太陽が覗いていた。そろそろ船では昼飯の支度が出来ているかも知れない。
 ち、と舌打ちしたところで腹が鳴った。
あのコックがG・M号に乗り込んでからというもの、船長による食糧危機時以外はほぼ同じ時刻に用意された食事を採ってきたゾロである。それに慣れた身体はたった一食抜いただけで貪欲に空腹を訴える。
 一人で旅をしていた間は、何日も飲まず食わずで平気だったものだが、思った以上に自分はあの船での暮らしに順応していたらしい。


 食事から連想するのは否応なしにキッチンで忙しなく働く金髪。


 自分を避け始めたらしいコックにムカついて、むしゃくしゃする気持ちのまま船を出たまでは良かったが―――珍しいことに、ゾロは自分の行動を既に後悔している。

(あいつが、一番嫌がることをした)

朝食に現れなかった自分を、コックはどう思っただろうか。
 料理人という仕事に生き甲斐と並でない矜持を持つ彼のことだ。用意されていただろう食事を無駄にした自分に怒りを燃やしているか、下手したら、落ち込む位のことはしているかもしれない。
 だが。

(―――案外、俺がいなくなって、せいせいしてっかもな)

ラウンジにナミが現れたときのあからさまにホッとしたコックの顔を思い出した。そうすると先程の後悔もどこへやら、どうにもムカッ腹が立ってしょうがない。
 ムカムカしてきた気分を追い払うように、ゾロは刀を外すと手頃な巨木の根元にどっかりと腰を降ろした。足を投げ出し腕を頭の後ろで組んで、瞼を下ろす。
 ゾロの耳に入るのは鳥のさえずりと風が木々の葉を揺らす音だけ。
気温も湿度も申し分ない。目が覚める頃には、自分のもやもやした気持ちも吹き飛んでいるだろう。







 陸地に上がるとどうも腰が落ち着かない。
どこへ行っても異国を訪れた気がするのは、自分が海で暮らす人間だからだろう、とサンジは思った。
 だが陸の恩恵があってこそ、海の上で暮らせるのだ。
こうして海を彷徨い出会った島々で、そこでしか味わえない食材を手に入れて、新しいレシピを仕込む。長い船旅には欠かせないアクセントだ。
 まずは食材を仕入れに、と取り敢えず辺りを見回したところでおかしな違和感に気付いた。
 見た目どおりかなり小さな島のようで、周りには幾つかの船が停泊しているものの、どれも個人用の小型船舶ばかりである。恐らく漁業がこの島の中心を占めているのだろうが、魚市場らしき建物にはきっちりと雨戸が降り、早くも店仕舞いの呈を晒している。
 おまけにまだ昼間だというのに不自然なほど人気がない。いくら小さくとも殷賑で然るべき港、ここまで人の気配が感じられないのも珍しい。

「………?」

いわゆる無人の通りをトナカイモードに変形したチョッパー、ナミ、サンジが連れ立って歩いて行く。手を入れられた舗装はかなりしっかりしており、それが余計に薄気味悪かった。

「静かね…なんだか、怖いくらい」
「確かにヘンだな。無人島には見えねェが…」

これでは息抜きどころか食料の調達も怪しいものだ、とサンジは眉を顰める。
 小さな島だ。もしかしたら自分たちが掲げる海賊旗に怯えて、住民全てが遠くに見える森の中にでも隠れたのかもしれない、そう思いついた矢先。

「しっ!」

トナカイがさっと首を廻して二人を牽制した。瞳を閉じて、耳を欹てる風情。
 動物の聴覚は人間以上に発達している。サンジとナミには聞こえなかったが、チョッパーは確かに何かの物音を捉えたらしい。

「―――ずっと向こうから大勢の人の声と、音がする。多分、そこに人間が集まってるんだ」
「集まってる?…何かしら。あいつら、バカな事して騒ぎでも起こしてなきゃいいけど」

先に降り立った賞金首のクルー達を心配しているのだろうか、気丈なナミの表情が少しだけ曇るのを見て取ると、サンジはことさら大仰に驚いてみせた。

「なァに、ヤツらに限って心配するようなこたァねェよ。寧ろ、ヤサシク善良な島の人たちに迷惑かけてねェか、そっちの方が心配だね俺ァ」
「そうよね、殺しても死なないような連中だっけ」
 
サンジのおどけた態度につられてナミにも普段の調子が戻ってきたようだ。よーし!と気合を入れなおし、しゃんと背筋を伸ばしてつかつかと先陣切って歩き始める。
 そうしてチョッパーの道案内で30分ばかり歩いているうちに、ようやくサンジとナミの耳にもそれが聞こえてきた。目的地も近いらしい。
 思わず駆け足で角を曲がると、狭かった路地が途端に開けた。

「…こりゃア人がいないはずだ」

普段はきっと集落の集会にでも使われているだろう広場には、今までの静けさが嘘のように音が洪水となって溢れている。どこに隠れていたのかという程の老若男女入り混じった人の群れ。
 陽気な音楽と人の笑い声で埋め尽くされたそこは、規模は小さいものの立派なカーニバル会場だった。

「今日がこの島のお祭りだったんだわ…」

拍子抜けした声が航海士の唇から洩れた。

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