剣豪の受難 4





 空には満天の星。穏やかな凪、かすかに揺れる水面。
見張り台の上には、三本の刀を立てかけて横たわる剣士の姿があった。
 一見平和な一コマであるが、剣豪の額には朝から増えるばかりの青筋がきっちり刻まれている。

「…やってらんねぇ」

昼夜抜いた食事のおかげで、耐えぬ潮の香りは剣豪の空きっ腹をいたく刺激していた。
 静かな夜だ。今夜は海軍も海賊も襲ってきそうにない。いや、来てもらっちゃ困る。
 きつく包帯が結ばれたままの両手と脇の愛刀とを見比べながら、

(何をやってんだ俺は)

思わず溜息をついてしまうゾロである。


 剣がどうとか、手がどうとか考える前に行動していた。


 幸いにも大事には至らなかったが、もしものことを考えると思わずらしくもなく身が竦む。

(修行が足りねぇ。……ん?)

不意に何かの気配を感じ、身構える。

(敵か…?いやそれにしちゃ殺気がねェ)

気配に続いて、静かにドアの開く音が聞こえた。そして潮風よりも遥かに食欲を刺激する香り。

「よぉ〜クソ剣豪〜〜〜」
「何の用だクソコック」
「今夜の不寝番に、差し入れだァ〜。テメェみてえな味音痴にゃあ勿体ねェご馳走だぜェ」

見張り台から顔を出すと、金色の頭がひょい、とバスケットを差し上げて見せた。
 面倒くさいので放っておくと、

「オイ、聞いてんのかよォ腹巻〜〜〜」
「マリモ〜ゥ。頭のカビが耳にまでイっちまったのかァ〜?」
「チョッパー呼ぶぞコラァ〜〜〜」
「…チョォォォッパァァァァ…」
「…!いい加減にしやがれ…?」

あることに気づいて語尾が半疑問系になった。
 なんだかコックの呂律が回っていない気がする。目を凝らして下をよく見れば、ふんぞり返る体勢は普段通りながら、常は白いその頬と鼻がほんのり赤い。

(あのアホ、酔ってやがんのか…)

サンジは余り酒に強いほうではないが、嫌いでもないことをゾロは知っている。
 今夜は一人で飲んででもいたのか、しこたま酔っているらしい。普段とは比べるべくもない覚束ないその不安定な足取り。
 大丈夫かよオイ、と思った次の瞬間には長い足が甲板を蹴って、見張り台まで一呼吸で飛び上がってくる。

「ぐお!?」
「お、悪ィ」

剣豪の脛に見事に着地したコックが、ちっとも悪くなさそうに詫びた。そのままフラフラとその場にしゃがみこみ、ゾロと肩をくっつけるようにして柵にもたれる。

「〜〜〜メンドくさがってねぇで梯子使いやがれ梯子!」
「両手塞がってんだから仕方ねェダロ」

ほらよ、と呻くゾロの鼻先にバスケットを突き出す。

「………」
「喰〜え〜」
「いらねェ」
「喰えっつってんだァクソマリモ」
「い・ら・ね・え」

噛み合わない会話に暫く睨み合っていたが、ゾロの腹の虫がそれを中断した。
 途端にげひゃげひゃとひっくり返って爆笑するサンジに、眉を顰めることで抗議する。

「おま、お前、思いっきり、『いる』って言ってんぜ、ソレ!」
「………」
「アハ、ハハッ、喰えよ。サンジ様特製のスペシャルお夜食『強情クソマリモ』仕様、ハハッ」
「なんだそりゃあ…」

いつもなら肉弾戦に発展する睨み合いだが、酒も入って笑い上戸にでもなったのか、ひとり笑い続ける酔っ払い相手に本気で怒るのもバカらしい。
 フーと大きく息を吐き出した剣豪は、珍しく素直にバスケットを受け取った。
 何故ならば剣豪とは腹が減っては戦が出来ないものなのだ。
この口の悪いコックはかなりいけすかないアホな奴だが、料理の腕は確かだった。剣豪とて美味いメシには弱いのである。
 覗きこんだ藤製のバスケットの中には、山のような握り飯。剣豪はハテどこらへんが自分仕様なのかと少し考えて、次の瞬間非常に情けなくなった。
 皮肉かこれは。

「…言っとくが、俺のは"鬼斬り"であって、オニギリじゃねぇ」
「アァ!?好物だからじゃなかったのか?」
「………」

どうやらマジらしい。このクソコックが!と怒りで肩が震えたが、ふとコックの蒼眼が己の両手をじっと見詰めていることに気づいた。

「外さねェんだろ、ソレ」

胸元から煙草を取り出したコックが、カチリとライターで火をつけた。
 フーッと煙を吐き出しながら、咥え煙草で酒の蓋を空ける。
てっきり自分の為に開けてくれたのかとありえない期待をしたが、勿論そんな過剰なサービスがあるわけもなく、目の前でぐびぐびと呷られる。
 薄い唇から、溢れて飲みきれない雫が白い喉元を伝った。

(弱ェくせにまだ飲む気かァ!?酒が勿体ねェだろ、アホな飲み方してねぇで俺に寄越せ俺に!)

「美味〜ェ」
「…あーそーかよ」
「でも俺のお夜食はもっと美味いぜェ〜?」

言いながらゾロの膝に乗せたバスケットに頭を突っ込む。
 ごそごそと漁ると、曲げられぬ指で不自由を強いられるその手の上に特大の握り飯を乗せてやった。

「これなら喰えんだろ〜?」
「…あぁ」
「チョッパーならもう寝ちまったぜ?でもテメェは明日までソレを外さない。チョッパーと、『約束』しちまったから〜」




『明日まで外すなよ?手の平の火傷は手をしっかり保護してやらないとダメなんだ。今日は鍛錬もナシだぞ?』



一生懸命言い募るチョッパーに、つい「解った」と返事をしてしまったのは、包帯を巻かれた直後だ。
 それからゾロは、動かせない指先に不自由したりイラついたりしながら、二食分の食事を放棄してまでその約束を守っている。
 剣豪とは、一度交わした約束を違えないものだからだ。

「らしくねェ気を遣うのもいい加減にしやがれ〜?」
「ほっとけ」

手の上に乗せられた握り飯を、ばくっと大口開けて貪り食う。 海苔の焙り具合と塩加減が絶妙だったが、勿論そんなコックをツケ上がらせるようなことは言わない。

 らしくない事をしてしまった、なんて、鍋を掴んだときからずっと思っている。
 ガツガツと握り飯に齧りつくゾロを満足げに見遣ると、サンジが小さく口を開いた。

「あのトナカイはよォ」
「あぁ?」
「一生懸命だよな」

この場にいないトナカイを思い浮かべてでもいるのか、どこか謳うように呟く。

「勝手も解らず乗り込んじまった海賊船で、自分に何が出来るのか、一生懸命探してやがる」
「甚だ迷惑なだけだがな」
「…ハッ、言うと思ったぜクソ剣豪?その割りにゃア、珍しく辛抱してっじゃねェか。テメェが不死身のバケモンなんだってこたァ、あのトナカイだってすぐに気づくぜ?」
「おい俺だって死ぬぞ多分」
「多分かよ!…そんで、ハズカしくなっちまうんだ。バケモン相手に自慢たらたらホータイ巻き巻きしちゃったヨォ、なんつって」
「………」
「初めての船での急患に興奮しちゃって張り切りすぎました、ってな」
「………」
「後で余計傷つくんじゃねぇのかァ〜?」
「…そうかもしれねぇ」

ションボリする小さなトナカイの姿がゾロの頭に浮かんだ。

(ったく、ホントに今日の俺は…どうしちまったんだか)



ハンモックからゾロの上に落ちた。

給水設備をぶっ壊した。しかも直させた(…のはナミだが)。

甲板でふざけ回って直したばっかの床を踏み抜いた。

たいしたことない怪我を大袈裟に治療した。


もしトナカイでなかったら、自分はどうしただろう。例えば相手がこの気に喰わないコックだったとしたら…?
 愚問だ。問答無用で殴りかかっていた。この剣士は気の長い方ではない。

「らしくねェ変な気まわして話がややこしくなっちまった結果が、コレだ」

最初から必要なかったであろうゾロの両手に巻かれた包帯に、ぽんと新しい握り飯を乗せてやりながらニヤリと哂う。
 ナミだって他人に任せないみかんの世話を教えてたし、そういうテメェだってテーブル用意させてたじゃねーかと思いつつ、憮然と返した。

「らしくなくて、悪かったな」
「いや。…悪くない」
「あ?」
「らしくねェ気を遣うテメェも、悪くない」

不意に。
 コックがそれまでゾロが見たことのないような、晴れやかな顔で笑った。
酔いがマワった頬はそこだけ赤くて、壮絶に…なんというか、アレだった。

(アァ…?)

 口にしたことは勿論、気持ち悪くて良く考えたこともなかったが、

(クソコック、見られるドコロか野郎の癖してスゲエ別嬪じゃねェかオイ?)

笑顔を見た瞬間に恐ろしいことを思ってしまった。
 女を前にデレデレとだらしな〜く締まりのない間抜け面と、射殺すような凶悪な目つきで敵を(時にはゾロを)睨んできた姿と。間近ではその二つしか見たことのなかったゾロにとって、それは結構な衝撃だった。
 突然体中の血液が暴れだして、胸が焼け付くように熱くなる。昼間の鍋なんて比じゃない。

(なんだなんだなんだなんだ!?)

考えたくない。すっごくすっごく考えたくないが。
 眉毛は愉快にグルグルしてるし、男だし、ちんまりとだが顎にはバッチリ髭なんかも生やしてるこの性格の合わないアホコックは。

(こんな風に笑うと物凄く、物凄く、物凄く…アレなんじゃねェのか?)

いやアレってなんだよ。
 そんなゾロの内心の葛藤には全く気づかず、何を思ったのかいきなりコックがゾロの膝上に飛び込んできた。

「うお!」

サンジの吐息がかかるほどの至近距離に慌てるが、そんな剣士にコックはちっとも構わず、馬乗りになるようにして、その胸倉を掴み上げる。

「だけどよォ」
「…!?」
「俺にまで気を遣うってのはどういった了見だウラァ!」

(今度は絡み酒かよ!)

ほんの一瞬で鬼の形相となったコックは、その余りのギャップに思わず呆然とする剣士の襟元をぐいぐいと締め上げる。突き刺さる視線が氷のようだ、とゾロは思った。

「なんで掴んだんだオイ」
「………」
「テメェがバケモンじゃなかったらなァ、マジでしばらくァ刀なんざ握れねェようになってたかも知んねェんだぜ?それをよォ」
「………」
「お得意のチャンバラで、鍋なんざ吹っ飛ばしちまや良かったじゃねェか」
「………」
「お前がしゃしゃり出てこなくてもなァ、俺は華麗にキャッチ出来たんだよ華麗に」
「…そうかもしれねー」
「ダロ!?」

ニパァーっとサンジが破顔した。そうだろ俺は華麗だろと一人頷く。

(なんだこの酔っ払い…ムカつくったらありゃしねえ)

「ソコじゃねェよアホが。ったく、なんなんだテメェは」
「んあ?聞いてんのは俺だァクソ腹巻」

だらしなく伸びた顔から一瞬にしてまた氷のような目に戻る。
 くるくるとその姿を変える男から、ゾロは何だか目が離せなくなってしまっていた。

「身代わりにクソ熱い鍋引っ掴んで?―――もしかしなくてもこの俺を庇ったつもりかよ?この俺を!ハッ、お偉いこったなァクソ剣士様よォ!」

(俺だって解らねェんだよ!しょうがねェだろヤっちまったもんは!)

いつものように喧嘩を売られているんだろうか。ならば何故、このコックは泣きだしそうな顔をしているのか。
―――まるで、いまだ己の居場所を見つけられないあの小さなトナカイのように。

「そんなんじゃねェだろ、俺たちは」
「…あぁ」
「ヤなんだよ、そんな―――俺のタメに誰かが…、頼んでもねェのに、庇われんのは」
俺はそんなにカヨワク見えんのか?
 常に誰かを庇って傷つくコックが、どこか縋りつくような瞳をして言った。
至近距離で見る碧眼は、それまで見せたこともない儚さを湛えていて。ゾロが目を見張った瞬間、急に力を失ってガクリと首を落とす。

「…だから、もう、ヤメロ」
「解った」

言いたいことは色々あったが、一言だけで返す。そうすることが一番、この訳の解らない男を安心させられるような気がして。
 プライドの高い料理人は、守ることはしても守られることを潔しとはしないのだ。
下を向いたままのコックから、小さく嗚咽が洩れ始めた。どうやら泣き上戸でもあったらしい。

「…ッおい!」
「…ック、な、なんだよォ〜〜〜」
「マジか?テメェ泣いてんのかよ」
「…ッキャロー、何で俺が…泣かなくちゃ…えぐッ」
「泣いてんじゃねェか思いっきり」

(どうやら俺は、コイツの誇りってヤツを踏みにじっちまったらしい)

そんなつもりは毛頭なかった―――ならば、どんなつもりだったのか。

(そうか)

滅多に見れない金色のつむじを見つめながら、ゾロはいきなり気がついた。

(きっとこいつは、死ぬほどナサケねぇツラになる)



命より大事なその手を傷めたら。

ひっくり返った鍋を見たら。




(俺は、クソコックの辛気臭ェ面が見たくなかったんだ)

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