20時からの恋人 10


10 場所


 目を白黒させる看護婦の前で、ゾロは先ほどと同様に手を沿えて無理矢理左膝を曲げた。
ゴキ、ガキ、と異様な音を響かせながら真剣な目でそれを繰り返す。
 やがて彼は両足を揃えてベッドから降ろし、腰掛けた状態でボソリと満足そうに呟いた。

「…イケるな」
「いけませんってば!」

ゾロがギブスを自ら割った時点でたしぎの頭の中は恐慌状態だ。
 人並みはずれて無理をする男だとは思っていたが、まさかここまでバカな真似をするとは思わなかった。
これはもう自分一人では埒が明かないと咄嗟にナースコールに手を伸ばすが、男は素早くそれを掴むとそのままたしぎの身体をベッドへと引き倒した。
 ゾロの隣に頭から突っ伏した看護婦は、次いで自分の腕がそのまま背中で捻り上げられている事に驚く。

「―――な、何するんですか!」
「動くな。関節が外れるぜ」

地を這うような凄みを利かせた低音に、小柄な看護婦が慄いた。
 ゾロは泣く子も黙るかという危険極まりない表情でニッと唇の端を歪め、

「すまねぇな。乱暴にするつもりはねェんだが」
「…もう充分、乱暴です!」
「痛くねェだろ?」

確かに痛みはないが、そのかわりどんなに腕や身体に力を込めても身動きひとつ取ることが出来ない。

「もしあんたが誰かを呼ぶってんなら、俺は今すぐ窓から飛び降りる」
「なっ…?」
「エレベーターや階段使うより早そうだしな」

そう嘯くゾロの言葉にたしぎの顔面が一気に蒼白になった。
ここは5階である。しかしこの男ならそれもやりかねない…いや、絶対そうするだろう。

「今日中に戻る。アンタはそれまで、誤魔化しといてくれりゃいい」
「そんなの、無理に決まってます…皆さん、見てますから」

ん?とゾロが周りを見渡すと、同室の患者たちが唖然とした顔でこちらを見ていた。
 こりゃしまったとゾロは眉根を寄せる。

(忘れてたぜ…いっそ全員、縛り上げとくか?)

そんなとんでもない事を考えていたら、反応を伺うゾロと視線を合わせた一人が徐に口を開いた。

「たしぎさん、行かせてあげなよ」
「…はあ?!」

思いがけない言葉にゾロもたしぎも目を丸くする。
 患者達は二人を無視していきなりべらべらと話し始めた。曰く、

「こうまで無茶するってことは、それだけなんか大変な事情があるってことだろ。看護婦さんってのは、患者の気持ちも考えてやらにゃあ」
「この人ならちょっとくらい抜け出しても、多分大丈夫だろうしな」
「頑丈そうだもんなあ」
「ロロノアさん、靴もいるだろ。サイズは幾つかね」

口々にゾロを弁護し始めたのに、たしぎがガクリと脱力する。

「もう…勝手にしてください…」








 相部屋の男から拝借したスウェットの上下はゾロにはぶかぶかで、且つ少々長さが足りなかったが贅沢を言える身分でもない。
 同室者たちに頭を下げ、さてと壊れたロボットのように両足を交互に出しながら歩き始めたところで、

「あの人はロロノアさんの何なんだね?」

行き過ぎようとしたベッドからそう尋ねられ、ゾロは「うーん」と苦笑で返した。

 行きつけの、屋台の、年若い店長。

今はまだそれだけでしかないあの男が自分にとって何になるのか―――全てはこれからだ。

 常日頃から同室患者の無茶を面白がっていた彼らは、おでん屋とゾロのやり取りの一部始終を息を詰めて見守っていたようである。うちの一人は何を思ったか「頑張れよ」と財布まで貸してくれた。
 さすがにそれは、と暫く受け取るのを躊躇ったゾロだったが、入院以来一度も家に戻っていない彼なので只今の所持金はまるっきりのゼロ。恥を忍んで好意に甘えることに決め、ゾロは決まり悪げに頭を掻いた。

「あー、すまねえ。戻ってきたら、金も借りも必ず返す」
「上手いこと仲直り出来たら、今度あの兄さんの弁当分けてくれ」

まかせとけ、と凶悪面が爽快に破顔した。








「ごめんねナミさん、こんなとこまで足を運ばせて」
「いいわ。そのかわり奢ってくれるんでしょ?」

それは勿論、と決まりが悪そうな青年に悪戯っぽく微笑んでやってから、ナミはふうん、と小さな屋台を見渡した。
 お世辞にも新しいとはいえない、ちんまりとしたおんぼろ屋台だ。
しかし店主のこだわりからか、そこはかなり清潔だった。それこそ自分のオフィスビルのようなこういった場所にありがちな饐えた異臭もないし、狭いカウンターにだって埃ひとつ乗ってやしない。

(きれいにしてる…サンジ君らしいわ。でも)

サンジとはかれこれ10年近くの長い付き合いになる。
 やたら料理が得意な鬱陶しいほどの女好きで、仕立てのいい洋服を好みいつも身の回りを小奇麗にしている青年。
 出会った当初はそんなサンジを『気障で神経質な下らない男』だと多少の侮蔑を込めて哂ったナミだったが、会話を交わし彼の本質を知るうちにそれが彼流の『愛すべきレディ達』に対する礼儀なのだと理解した。
 そしてそのスタンスは、男女関係なく彼の料理を食する全ての客に対しても同じで。

 屋台を始める前―――サンジが以前勤めていたレストランは、老舗のそれもかなりランクの高い名店だった。
 料理は勿論、店のセンスも最高級。選ばれた客のための、選ばれた料理を饗する選ばれた場所。
その厨房の中心で真っ白なシェフコートを纏い働くサンジはとても流麗で、ナミはそんな彼を見るのがとても好きだった。
 今はよれた黒いエプロンだけをその痩身に巻きつけた青年を見遣り、そっと溜息を落とす。

(似合わないわよ)

全てを捨ててこんなところを選んだのには、彼なりに思うところがあったのだろうが。
 けれどサンジにはやはり表舞台に立って欲しい。
その腕に見合うだけの賞賛を受けて欲しいとナミは常々思っている。
 サンジがここを開いて以来今まで、一度もこの屋台を訪れることがなかったのもそのためだ。

(らしくないって、早く気がつけばいいのに)

その考えは魅力的な友人に対する名誉欲や独占欲も過分に含まれていたが、ナミはそんな自分をちゃんと理解している。彼のためを思う気持ちだって真実あるのだ。

「あ、ナミさんこれ」

物思いに耽っていたナミに、目の前に立つ『おでん屋』の青年が分厚い封筒を差し出した。中身は勿論、先だって自分が彼に発注した仕事の仕上がりだ。
 いつもは直接事務所まで足を運ぶサンジが、今日に限ってナミに受け取りを頼んできた。冗談じゃないわ面倒くさいと突っ撥ねても良かったが、約束の時間ギリギリに掛かった電話越しの声があまりにも頼りなくて、つい絆されてここまで足を運んだナミである。

「―――ご苦労様。間に合って良かった」
「すまねェ、ちょっとばかり寄り道しちまって…」

そう言う彼の顔はやけに青白く、片側だけ見える普段は赤ちゃんのように真っ白な強膜が今はまるで泣き腫らした後のように充血していた。
 恐らく必死になってこの書類を仕上げたのだろう。もしかしたらしばらく寝ていないのかもしれない。

「今回は量が多かったから…サンジ君、随分頑張ったんじゃない?」

そうだとしたら思う壺だ。その為にナミはサンジに無理をさせているのだから。

「うんまぁ…でも、一度引き受けた仕事だしね」

金もないし助かってるとかすかに口角を上げるサンジに、ナミは心の中でガッツポーズを作った。

(あと一押し、ってところかしら)

カウンターに両肘をついて、ずいっとサンジの前に身を乗り出して言う。

「―――潮時じゃないの?」
「…何だい?」
「店仕舞いしなさい、ってこと。休むまもなく働いて、それで身体壊したら元も子もな」
「ナミさん」

それはサンジが普段ナミに話すものとは違う、初めて聞く強い口調だった。

「すごく考えたんだけど、俺、やっぱ諦められねェ」
「…サンジ君」
「確かに儲けはねェけど。俺ひとりが暮らしていくのだってヤバイくらいで、ナミさんにも迷惑かけて。情けねェにも程があんだけどさ」



でも楽しいのだと。
ここだけが俺の場所なのだと、サンジは今までナミが見た中で一番晴れやかに笑ってみせた。



「………あーあ!」

ナミはばしん!とカウンターに両手の平を勢い良く叩きつけた。
 仕事を任せてからの数日に何があったのか知らないが、サンジはついこの間までの迷いのようなものが一切抜けた、すっきりとした顔をしている。

(そんな顔されちゃ、何も言えないじゃないの)

「ナミさん?」
「私、おせっかいだったみたいね」

ふっ、とナミが自嘲的に微笑うのにサンジは少しだけ肩を竦めて、彼女の前にそっと突き出しとおでんの盛られた皿を置いた。

「―――お待たせしましたレディ、どうぞ召し上がれ。…俺のおでんは病みつきになるぜ?」

大仰なほど気障な物言いは、あのレストランにいた彼とまるきり同じで。
 心配した自分がバカだったとナミは今度は大声で笑い、

「おで…、―――サンジ」

暖簾をあげて現れた男の声が、それを遮った。




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 (2003.08.06)

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