20時からの恋人 9


9 名前


受付でゾロの病室を尋ねたサンジは、エレベーターを降りて教えられた居室へと向かいながら、

(509、ロロノア・ゾロ―――ゾロ)

初めて聞いたフルネームを何度も口の中で繰り返した。

(ゾロ)

名前も知らぬ常連を、サンジはよくふざけて「マリモ野郎」などと呼んでいたが。
 いい名前だ、と思った。二つの文字で構成される男の名前は、不思議とすぐに心に馴染む。
そう考えたサンジは、ついでその顔を僅かに歪めた。

(あいつ、俺の名前…知らねェよな)

名乗ったことがないので当然なのだが、そのことはひどくサンジを狼狽させた。
 名前も知らない男がいきなり病室を訪れても、あいつは困惑するだけかも知れない。
ましてや迷惑がられたら―――?

(…これ渡して、顔見たら、すぐ帰ろう)

目指す病室は奥から二番目だ。
 手前まで来て一旦停止したサンジは、すうっと深呼吸して、紙袋から大きな風呂敷包みを取り出した。
抱えなおしたそれにぎゅっと力を込めて、一歩を踏み出す。
 そして。
勇気を出して覗き込んだ部屋の中では、『ゾロ』と看護婦らしき女性が抱き合っていた。








「―――ッお前、」

何でここに、とゾロが続ける前に、つかつか近づいた男からすっと風呂敷包みが差し出された。

「見舞いだ」
「………」

反射的に手を出そうとしたゾロは、そこで自分が看護婦に抱きとめられたままの状態だということに気がついた。
 赤面しながら慌ててたしぎを押しのけて、ベッドにどっかり座りなおす。
看護婦をちらりと見遣ると、何故かにやにやと人の悪い笑みを浮かべていた。

「それじゃロロノアさん、無理しないでくださいね。…ごゆっくり」

最後の一言は現れた青年に向けられたものだ。
 さっさと部屋を後にする看護婦に、おでん屋は軽い会釈で応えた。

(…なんだっつーんだ…)

一方ゾロは不意の来訪に頭が上手く働かない。ずっと会いたいと思っていた人間が目の前に突然現れて、けれど喜びよりも先に驚愕が大きい。
 そんなゾロに、おでん屋がもう一度その手の包みを差し出した。見た目よりずしりと重い風呂敷包みは、ふわんと食欲をそそる匂いがする。
 膝にそれを置いたゾロは、包みとおでん屋の顔を交互に見比べた。

「これは…?」
「なんか、病院のだけじゃ腹が減るって聞いたから」
「開けていいか」

おでん屋がコクリと頷いて、ゾロの前に屈みこむ。
 菜箸を握っていた懐かしい白い指先がゆっくりと結び目を解いた。重箱の蓋を開けてあらわれたその中身に、ゾロが目を見開く。

「たいしたモン入ってねェけど」
「充分だ」

今喰っていいかと聞くと、おでん屋はそっと重箱に添えられていた塗り箸を手渡した。
 大きな玉子焼きに箸を突き刺してばくっと頬張ると、出汁と上品な甘味が口に広がる。

(ああ)

こいつの味だ―――とゾロは思った。
 コビーが差し入れしたおでんを口にした時と同じく、おでん屋の作る料理は他のそれとは比べ物にならないくらい、ゾロの口に合う。

(俺はずっと、このメシが喰いたかった)

こいつの前で。
 思った途端、自然に言葉が口をついて出る。

「美味い」
「…そっか」
「すげえ美味い」
「そっか」

立ったままのおでん屋が、ゾロの好きなあの顔でにこっと微笑んだ。
 思わずぽかんと口を開けてそれに見惚れたゾロは、慌てて青年から目を逸らす。

(…ヤベエ)

折角の差し入れを放り出して抱きしめたくなり、しかしいきなりソレはマズイだろうと、体内に湧いた熱を誤魔化すようにゾロは勢い込んで弁当をかっ込み始めた。
 そんなゾロに、おでん屋がぼそぼそと口を開き、

「…毎晩来てくれてたのにいきなり店に来なくなったから、なんかあったんだろうとは思ってたけど」
「あぁ」

言い辛そうに話しかけた青年に「仕事中に事故に巻き込まれた」と言うと、おでん屋がまたうん、と頷く。

「昨日、眼鏡の人に…アンタが長らく入院してるって、聞いた」
「コビーか。すまねェな、アイツが余計な事を言ったから」

重箱を少し持上げてゾロが頭を下げると、おでん屋は小さい顔を左右に振った。

「ずっと、気になってたから…ちゃんと、生きてたんだな」

そう言ってまたへらっと笑ったおでん屋の、髪の毛に隠されてない蒼い右目から。


ぽろり、と水滴が零れ落ちた。


 それを目の当たりにしたゾロはぐっと喉に豆ご飯を詰まらせかける。

「…ッおい!」
「あれ?」

おでん屋が不思議そうに自分の頬にその手を当てた。

「んだコレ…?俺、なんで」
「おでん屋」

げほげほ咳き込みながら箸を止めて、ゆっくり傍に立つ青年に手を伸ばすが。
 それに気付くことなく、触れる寸前におでん屋は一歩下がった。

「もう帰るわ」
「…んだ?」
「悪かったな、いきなり押しかけて。ゆっくり休んでくれや」
「おい」
「最近忙しくてさ、あんま寝てねーんだ俺。だからこれは…情緒不安定ってヤツ?」

そう言って薄く笑うおでん屋は、確かに最後に会った時よりも少しやつれていて、それを意識したゾロはかなり驚いた。

(なんて顔色してんだ!)

ただでさえ白いその頬が、今は青褪めているようにしか見えない。

「おで―――」
「サンジ」

呼び止めようとしたゾロの言葉をさえぎったのは、耳にしたことのない男名前。
 それは恐らく、この青年の―――

「おでん屋じゃねェ。俺ァ、…」

喉の奥から搾り出すような声だ、とゾロは思った。
 しかし青年は最後まで言葉を紡ぐことなく、くるりと踵を返すとさっさと病室のドアへと向かう。

「待てよ!」
「ホント悪ィ。…治ったら、また喰いに来いよな!」

振り返りざまに軽く手を振りながら明るく微笑んだ顔が、何故かゾロにはひどく…痛々しく、見えた。
 そしてドアの向こうに消える痩身。









 逃げるようにしてゾロの病室を後にしたサンジは、エレベーターに乗り込んだ途端に声を出さずに盛大に泣き出した。
乗り合わせた患者や見舞い客がぎょっとした顔でサンジを見るが、それに構う余裕もない。
 ぼろぼろぼろぼろ、勝手に涙が溢れてきて止まらないのだ。
顔を見ただけでこんなになるなんて、自分は本当にどうかしている。

(あいつが好きだ)
(あいつが好きだ)
(あいつが好きだ)

ゾロが好きだ。
壊れたレコードみたいに、そればかり頭の中で繰り返した。








 青年が病室を出るのと丁度入れ替わるように、たしぎが戻ってきた。
片手にはしっかり点滴のパックを持っている。そろそろ取り替える時間になったらしい。
 看護婦はベッドに上体を起こしてぼんやりしている患者の横で、いつもの如く四苦八苦してぶら提げられた点滴のパックを外し、新しいものに付け替えた。

「あの方、もうお帰りになったんですねー」
「………」
「なんか、印象的な人でしたねえ。…ロロノアさんがあんなにびっくりしたお客さんって、初めてじゃないですか?」
「………」
「それ、さっきの方の差し入れですよね?美味しそう!」

たしぎが弁当を覗き込んだので、初めてゾロはその存在に気がついたようだ。
 むっと眉を顰めて、慌てて残りの料理をガツガツ貪った。
まるで子供のようなその様子に「横取りなんかしませんよ」と看護婦は呆れかえる。
 飯粒ひとつ残さず全て食べ終えたゾロは、重箱に蓋をすると両手をぱしんと合わせて一礼し、いきなり腕組みして目を閉じた。

「…?」

胡散臭げにたしぎがその顔を覗き込むと、ばちっと目を見開いた男と目が合う。

「!」
「おいアンタ」
「え?」

驚いて眼鏡をずらした看護婦に、何気ない調子で声を掛けた。

「俺の服はあるか?」
「…はぁ?」
「この格好じゃ、表に出れねェだろ」

病院から借りた紐で前を閉じただけの寝巻きの胸元を引っ張って、ゾロは「取りあえずシャツとズボンをくれ」と要求する。

「表って…だだだダメですよ!車椅子でも、一人で外出は無理ですっ」
「ダメか。―――じゃあ、歩くしかねぇな」

こともなげにそう言ってのける男を、看護婦は信じられない者を見る目で眺めた。

「ちょっと、待ってください、あの」
「片方でイケるか…?ダメだなズボンが入んねぇか」
「あの、ロロノアさん」
「外さねェと」

いきなり左足に巻かれた包帯を外し始めたゾロを、たしぎは目をまんまるくして見つめた。

(なに、このひと、どうするつもり…?)

やがてシリコンで固められたそれが露になると、ゾロはリハビリ用に持ち込ませた鉄アレイを引っ張り出し、大体の見当をつける。
 そして。

「やだ、ちょっとやめてくださ―――ッ!」

その音はガツン、と廊下にまで響いた。

「止めても俺ァ行くぜ?どうせなら協力しろ」

真っ青になって見下ろす看護婦に明らかな脅しを込めて、ゾロは凶悪に哂った。




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 (2003.08.05)

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