20時からの恋人 11


11 捕食


 暖簾の隙間から顔を見せたその男の風体は、なんというか物凄かった。
まだ若い男だ。背が高く肩幅が広い。鮮やかな緑色の頭髪に、精悍な顔立ちでそれだけ見ればなかなかの男振りだが、瞳に宿る光は尋常でない強さを放っている。
 この寒空だというのに身に着けているものと言ったら着古したスウェットの上下だけで、それも袖と裾が微妙に短い。履いているのは何故かその格好には不似合いな立派な革靴。
 そして本来は恐らくグレーだったと思われるトレーナーの表面はありえないくらい泥だらけで、ところどころに血痕だとしか思えない暗赤色が滲み出していた。
 特に胸元は返り血でも浴びたのかというほど真っ赤に染まっている。
これはどうみても、

(…どっかの精神病院を抜け出した殺人鬼…!)

思わずガタリ、とカウンターベンチを立って後ずさりするナミだったが、男の口からぼそりと友人の名前が零れたので、ビクビクしながらサンジにそっと目配せした。

「サ、サンジ君、この方お知り合い…?」

目の前の青年に小声でそう呼びかけるが、サンジはナミの方など見向きもせず、驚愕にその蒼い目を限界まで見開いて、じっとその男を凝視している。
 やがてハッと覚醒した青年は握り締めていた菜箸を放り投げ、大慌てで屋台を飛び出した。








 店はまだ開店したばかりだ。
帰りのラッシュ時、電車を降りたばかりの人波がガード下を濁流のように流れていく。
 帰宅を急ぐ人々は古ぼけた屋台やそこに立つ不審な男、ましてやエプロン姿の青年になどは目もくれず、足早に傍をすり抜けて行った。
 サンジは如月の薄暗がりに立つ男の前まで来ると、震える声で問い質す。

「アンタなんでこんなとこにいんだ…!」
「お前が逃げたから、追ってきた」
「追ってきたじゃねェだろ!なんだよその格好、…まさかアンタ、病院抜け出したのか?」
「おう。お前に聞きてェことがあったからな」

あちこち傷だらけのゾロは世間話でもするようにそう答え、脱力したサンジはへなへなとその場に座り込んだ。

「信じらんねェ…さっきまでベッドでギブス嵌めてたじゃねェかよ…」
「外した」
「はず」

信じられねェ、とサンジは顔を伏せてぶるぶると頭を振る。
 そんな青年の前にゾロはゆっくりと屈みこんだ。小さい金色の頭と同じ高さになるようにこころもち首を倒し、泥だらけの指先でサンジの顔にかかる金糸を梳いてやる。

「さっき。なんで泣いた」
「………」
「なぁ。なんで泣いたんだ」
「…寝不足で情緒不安定なんだ、つった」
「違うな。俺に会えて嬉しかったんだろ」
「ンな…!」

咄嗟にバカな、と否定しようとしたが、言葉が続かなかった。

「嬉しかった、って言え。…俺は、すげえ嬉しかった」

ニッカリ笑った男がきつくサンジを抱き締めたからだ。








「おい―――!」
「自惚れてるか?だったらいつもお前が酔っ払いにするみてぇに蹴り飛ばせ。今なら俺ァボロボロだからな、一発でぶっ倒れる自信がある」

サンジを抱きしめる腕は小刻みに震えていて、その身体はじっとりと汗で湿っている。
 それは決して怯懦ではなく、ここまで自力で辿りついた男の身体が限界まで痛みを訴えているせいだとサンジは気がついた。

(バカだこいつ)

何故そんな無理をする必要がある。
見舞いに来たおでん屋風情がいきなり帰ったからどうだと言うのだ。

(ありえねえバカだ)

抱え込まれた両手が、顎を乗せられた肩が、密着する男の全てが熱かった。
 混乱するサンジはどう対処していいのか解らずに、それでもその場を動けない。

「なんなんだアンタ…何が言いたいのかサッパリ解んねェよ…」
「解らねぇか?」

ゾロがちょっとだけ身を離して覗き込んだ白皙の中で、気の強いおでん屋の蒼い瞳が所在無げに揺れ、

(ちっと会わない間に、随分大人しくなってんじゃねぇか)

なんだか可笑しくなったゾロがクッと喉の奥で哂うと、幾分頬を赤らめたサンジがむっとその眉を顰めて両手で男の肩を押しやった。

「いきなり、こんな」
「聞けよおでん屋。俺ァどうやら、いっぺん死んだらしい」
「…!」

腕の中の身体が途端に硬直したので、ゾロはもう一度力を込めて抱き直す。

「鉄骨が心臓カスって、血が流れすぎてたんだと。運良く生き返った俺が病院に居る間中、何を考えてたか解るか?」
「―――知らねェよ」
「お前は男だし。俺ァお前のメシ食えてりゃそれで満足だったから―――無理矢理どうにかしよう、なんて気は起こさなかった。けどな」
「…ゾロ」
「ンな遠慮は俺らしくねえって、死んでから気がついた」
「ゾロ!」

(たとえお前が、真昼間から男漁るようなヤツだったとしても)

最後におでん屋を見かけたあの日以来。
 昏睡状態から意識を取り戻したゾロは、あの場所で感じた疎外感と空虚感を思い出しては腸が煮えくり返るという日々を過ごしてきた。

(それでもお前がいいんだから、しょうがねぇ)

「お前に二度と会えなくなるのも、誰かに渡すのも、冗談じゃねェって思ったんだ。…男が欲しいんなら、俺にしとけ」
「…アァ?」

それまで黙って話を聞いていたサンジが訝しげにその顔を上げたので、文句を言われる前にゾロはさっさとその唇に噛み付いた。

「―――ッ!」

流石にじたばた抵抗を始めた痩身を逃げられないようにがっちり押さえ込んで、ぽかんと口が開けられていたのをいいことにゾロは舌を挿し込んで暖かい口内を思う様貪る。


 二ヶ月間で溜まった飢えを取り戻すために。


そうするうちにだんだんとサンジの身体から力が抜けていき、そうしてゆっくりその腕がゾロの背中に廻された。
 勿論おでん屋は、蹴り飛ばしたりしなかった。








サンジがうっとりと初めての口付けに身を任せていたら、

「―――もうそろそろ、いいかしら」

背後から、あきれ返った声が聞こえてきた。

「!!!!!!!」

我に帰って振り返った先ではナミが菜箸と電卓片手にカウンターの中で酔客の相手をしている。
 おまけにいつの間に陣取ったか馴染みの常連が徳利片手ににやにやと二人を眺めて酒を飲んでいた。
自分たちの置かれた状況を思い出したサンジは一気に顔に血を昇らせて、しっかり抱き合っていた男の胸に両手をついて思いッ切り突き飛ばす。

「ナナナナミさん?え、あの、あれ?」
「大根、足りないみたいなんだけどサンジ君」
「…ッ」
「店主が店ほったらかして何やってるのよ。まぁいいわ、ホモの恋人が出来たお祝いに、トクベツにタダ働きしてあげる。―――あぁオジサン、ツケは利かないわよ」

てきぱきと客をさばく姿はあらゆる職種をこなした流石の守銭奴だ。
 座り込んだままだったサンジは慌てて立ち上がり、ポケットから黒いほっかむりを取り出してきゅっと髪の毛を覆った。
 ごめんね、と小走りに屋台に戻ったところで、無表情なナミが菜箸でちょい、と地面を指し示した。

「あの人、動かないけどいいの」
「え?」

赤面したままのサンジが仰ぎ見た先では。
 この日張り切りすぎた挙句ぱっかり開いた傷口にトドメの一撃喰らったゾロが、情けなくもスッカリ意識を失った状態でひっくり返っていたという。




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 (2003.08.08)

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