20時からの恋人 4


4 ORDER


 昼過ぎから降り始めた雨が、しとしとアスファルトを濡らしている。
たかが小雨が降ったからと言っておでん屋の営業には変わりない。
 いつもどおりに屋台を設営しながら、点けたばかりの煙草をうっかり濡らしてしまったサンジは、不本意そうにむにっと下唇を突き出した。
 足元に出来たばかりの水溜りにひょいとそれを投げ込む。

(勿体ねェことしちまった)

なんだか煙草に申し訳ない気持ちで、黒いエプロンのポケットからボックスを取り出して新たな一本に火を点けながら、ふと正面の駅に目を向けてみた。
 こんな天気でも年末とあれば駅前はどうにもこうにも騒がしい。
色とりどりの傘を差して目の前を行き交う人の群れが普段よりも華やかに見えるのは、きっと人恋しいせいだろう。


 ひとりの雨の日はどうしたって気が滅入るものだから。


 煙草を一本吸い終わるまで、サンジはじっとその風景を見詰めていた。
もうじきクリスマスだ。
 街路樹にはイルミネーションが取り付けられ、今は雨に煙って淡い光を揺らめかせている。日が暮れたら、もっとキレイに街を照らすだろう。

(おでん屋の明かりなんざ、霞んじまうよなァ)

「…今日も張り切って行くかー」

言葉とは裏腹にちょっと疲れた声が出た。
 ここしばらく、サイドビジネスが忙しくてロクに寝ていない。

(あいつ、どうしてっだろ)

こんな日は。
もう1カ月姿を見ていない若草色を、また思い出してしまう。









 瞼を開くとまず、見慣れない白っぽい天井が見えた。

「………」

(どこだ?)

さて自分は夢でも見ているのかとばちばち瞬きを繰り返しても、視界に入る景色は変わらない。
 がちがちに固まった首をそろりと廻して周囲を確認すると、自分がどうにも殺風景な場所に寝ている事が解った。眼に映るのは淡いベージュに塗られた壁と、そっけないリノリウムの床、クリーム色のパイプベッド。掛けられたぺらぺらのシーツ。
 それから点滴の器具と、口に被せられているのは恐らく呼吸器、周りを埋める訳のわからない機械類。
 小さない光が点滅するそれらから伸ばされた細いチューブはなんと身体のあちこちに繋がっていて、ゾロをひどく驚かせた。

(なんだこりゃ…)

なんだか随分長いこと寝ていたようだ。頭の中にぼんやり霞がかかったようで思考が上手くまとまらない。
 なんとも言えない居心地の悪さを感じ、取り合えず身を起こそうとして、彼は自分の体がひどく重く、思うように動かせないことに気がついた。
 四肢にまるで力が入らない。こんなことは生まれて初めてだ。

(オイどういうこった)

流石に焦って、気力を振り絞ってどうにか上体を持ち上げるが、途端に後頭部と胸がズキンと痛む。

「…ぅぐッ…!」

次いで全身に走る、肉を抉り取られるようなハンパじゃない痛み。どっと冷や汗が噴き出し、置き上がった形そのままに、ゾロは柵ごとベッドから転がり落ちた。
 ぶちぶちとチューブが外れ、途端に忙しない電子音が小部屋に響く。
ぐらぐら揺れる視界の先で、壁と同じく素っ気無いベージュのドアがスライドするのが見えた。

(ここァ…まさ…か…?)

誰かの駆け寄る足音と、

「ロロノアさん!?」

切羽詰ったような声。
 それらをゾロは遠のく意識の中で聞いた。





 床に転がった姿のまま気絶していたゾロは、チューブが外れた為鳴ったナースコールのお陰ですぐに看護婦に発見された。不幸中の幸いである。
 再び意識が戻ったのはもと居たベッドの上。
そこでゾロは自分がそれはもう結構な怪我人であることを知らされた。

「全治1年」
「…1、年…?」
「退院予定は未定だが…まぁ半年ってとこだね」
「はん」

幾らなんでもそこまでは、と眉をぎゅっと寄せたゾロに、白衣の老女は容赦なく宣告する。

「傷が塞がるまであと1月半。それからリハビリに半年、全快まで1年は余裕でかかるだろうさ」

ベッドに横たえられたまま女医の説明を受けながら、ゾロは苦虫を噛み潰したような顔になった。
 長時間口を利いていないせいか、すっかりしわがれてガラガラになった声で、

「そ−−−んなには、居られ、ねぇ。現場が」
「そりゃアンタの都合だろ。退院許可を出すまでは、医者の言うこと聞いて大人しくしとくんだね」

今度勝手に動いたらベッドに拘束する、とキツイ調子で叱られた。落ちた拍子に何箇所か縫合が開いたそうである。
 医者にあるまじき乱暴な口調ではあるが、その視線の強さから彼女のかなりなキャリアが感じられた。
彼女がそういうからには、確かに全治に1年かかるのだろう。−−−普通なら。

(ゼッテー1ヶ月で退院してやる)

全身に走る苦痛から身動きひとつ取れない状態で、偉そうにゾロはそう決意した。
 どうにも無理っぽかったが。





 おでん屋を見かけたあの日。
後輩と共に向かった工事現場で、ハデな事故が起こった。
高所作業用に組んでいた足場がいきなり崩れたのだ。



 建設途中のビルの中心で図面を睨んでいたゾロは、倒れてくる鉄骨に潰されそうになったコビーと職人を突き飛ばし、身代わりにその下敷きになったのだという。

「は、二十日も、植物状態で、僕、」

ようやく面会謝絶の札が取り外されたのと同時に病室に入ってきたのはまさしくそのコビーだった。
 同僚と共に見舞いに訪れた彼が涙ながらに訴えるのに、そういやそーいう事があったか?とゾロはのんびり考える。

 意識を回復してからまた一週間が過ぎていた。ICUから一般病棟に移されたのがおとついだ。
それでも常人では考えられないスピードなのだと、看護婦はその驚異的なまでの回復力に随分驚いていた。

「先輩は命の恩人です」

何を大袈裟な、とゾロが吹き出すと、しいんと周りが静まり返った。

 ゾロを直撃した鉄骨の総重量は2t。そのうち一本は左肩から右脇腹までを大きく抉り取り、その出血の量だけでも普通なら即死でおかしくないという状況の中。
 救急車から病院に運び込まれた時点で、既にゾロの呼吸は停止していたのだそうだ。
諦めムード漂う中彼の手術は行われ、輸血に次ぐ輸血と執刀の途中、奇跡的に蘇生したのだと言う。

「運が良かったよ。それにしても余程丈夫な男なんだねえ、常人なら三回は死んでる」

担当医であるくれはは術後呆れたようにそう呟いたらしい。

 それでも肋骨、両手足、腰骨とどこもかしこも複雑骨折、背骨と内臓が無事なのが不思議なほどの大怪我である。後頭部を強打しており、小さいが脳内出血も見られるため、現在のところ絶対安静を言いつけられている。なかなか目が覚めなかったのもそのせいだろうと言われた。

 気づいた当初は仕事を考え、早期退院を切望したゾロだったが、監督を務める現場には既に別件を片付けたばかりの使える同僚が後任として入っているらしい。
 年末、年明けとどの道しばらくは現場も休みに入る。
当面は業務上における心配もなくなり、ゾロが助かったことで足場を組んだ下請けが事故責任を取らされる可能性も減った。
 世間体を気にした会社側から『労災が下りるから安心して療養しろ』とまで言われれば、ゾロもやぶさかではない。
 ベッドの上で優雅に(それはもう体中痛いのだが)朝から晩まで一日中寝こける生活を続けている。
もうしばらくして傷が塞がれば、リハビリを始めなければならない。そうしたら嫌でも思いっきり体を動かすことになるのだから、今はまぁじっとしているに越した事はないだろう。




「僕、毎日お見舞いに来ます!」

責任でも感じているのかコビーがそう意気込むのに、ゾロは苦笑で応えた。

「いらねェよしっかり働いとけ。―――あ」
「ロロノアさん?」
「たまに、なんか美味いモンでも差し入れてくれねぇか」

病院食じゃ物足りないというゾロの台詞に、見舞い客の方が苦笑した。
 命にかかわる大怪我から生還したばかりだというのに、まったく化け物のように元気な青年である。

「勿論ッスよ!」
「看護婦にバレないよう運ばせます」
「何か、ご注文ありますか?」
「―――」



小柄な女性社員の台詞に、唐突に。
暖かい湯気の立ち昇る一皿を思い浮かべた。


「…おでん」
「は?」
「おでんが喰いてェ」

どこか上の空でそう呟くとゾロはゆっくり、気力だけで起こしていた体をベッドに横たえた。

「―――悪ィ。薬が効いてきちまったから、寝るわ。お前らももう帰れ。…心配かけて、悪かったな」

表面上はいつもどおり元気そうに見えても、いまだ重症患者であるのには変わりない。
 ゾロがそっと瞼を下ろしたのを見た見舞い客たちは、長居するのも迷惑か、と静かに部屋を後にした。







一人になったゾロは考える。

(1カ月も、行ってねぇのか)

毎晩押しかけてたくせにイキナリ姿を見せなくなった常連を、おでん屋はどう考えているだろう。
少しはガッカリしているだろうか。それとも気にせず普通に商売を続けているのか。

いやそんなことより今は。

(あいつの作ったメシが喰いてぇな)

でかい口を開けてアホみたいににぱっと笑った、おかしな眉毛の金髪の青年。






―――あいつの顔が見たい。




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 (2003.04.18)

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