20時からの恋人 7


7 逸る急く


「明日はようやく右足のギブスを外すそうで」

 点滴を弄りながらのたしぎの言葉に、ゾロはそちらを見もせずに「おう」と答えた。
鉄アレイを握った両手を交互に肩まで持上げる動作を繰り返しつつ、しばらくしてから、ん?と首を傾げる。

「そういや聞き忘れてた。なんだ右だけなんだ?左はまだ外せねェのか」
「…まず片方だけ外してみるんですよ。お昼にくれは先生から説明あったでしょう?」

ホント人の話を聞かないんだから、と担当看護婦はぶつくさ言いながら生理食塩水のパックを付け替える。
 胸から腹を斜めに裂いた大傷はいまだ塞がらず、両足にはしっかりギブスを嵌められたままのゾロだが、足は既に二回、鉄板とボルトを埋め込む手術をクリアしている。
 ベテラン医師のくれはですら驚きの回復力。レントゲンを撮る度に、

「あんたは多分、殺しても死なない身体に生まれついたんだろうねぇ」

などと軽口を叩かれる始末だ。

「そうだ。言っても無駄でしょうけど、早く退院したいからって無理はやめてくださいね無理は」
「………」
「なんで黙るんですか」

思わず詰め寄るたしぎだが、当然ゾロは聞こえないフリでそれを無視。
 片足ずつ外すのは、その方が歩行訓練に都合がいいためらしい。ギブスを外し専用の装具が出来たらいよいよ自分の足で動き回れるようになる。

(そしたら)

ためしに―――久しぶりに外に出てみるか、とゾロはニヤリと哂った。
 ここしばらくのコビーの差し入れですっかり里心のついたゾロなので、勿論目的地は決まっている。
リハビリついでに抜け出す気満々だ。
 この小煩い看護婦は恐らく大騒ぎするだろうが、バレなければいいのだ。

「ロロノアさん…気持ち悪いですその顔」

たしぎが気の毒そうな顔でゾロを見下ろした。
 言葉を選ばない看護婦である。









「兄ちゃん、今日は随分ご機嫌だなァ」
「…そうかい?」
「うん、久しぶりにイイ顔見せて貰ってるぜ」

鼻歌まじりにおでん鍋を掻き回すサンジに、常連のひとりが揶揄うように話しかけた。今夜もおでん屋は満席で、真冬の夜さりにそこだけぽかりと暖かい。

「最近なんか、元気なかったもんな」

もう一本、と空いた徳利を差し出しす男に、おでん屋はハハ、と曖昧に微笑んだ。
 機嫌がいいのは当たり前だ。開店直後に眼鏡と話してからこっち、サンジはなんだか浮かれ気分で仕方がない。ずっと喉元にひっかかっていた小骨がすっと胃に落ちた心地。

(アイツ、別に俺の味に飽きたわけじゃなかった)

オーダーの燗を暖めながら、器用に菜箸を動かす。具材の色が均一になるように、煮詰まったりしないように、その腕は休まることがない。

(『ここのメシ以外俺は喰わねー』なんてどのツラ下げて言いやがったんだろ)

手は休めないながら、サンジはひたすらシアワセな想像に浸る。

(んだよ畜生、俺のおでんが喰いたくても入院じゃどーしよーも…ってアレ?)

そこまで考えて、サンジはん?と首を捻った。

「…入…?」

サンジはぽっかり口を開けた。
 いきなり音沙汰のなくなった常連の消息が掴めた嬉しさに、『その理由』をすっかり失念しきっていた自分に愕然とする。

(入院ってアレだよな、もしかしなくても―――病気ってことじゃねェか!)

あの身体だけは頑丈そうな男に一体何が起こったと言うのだろう。後輩を名乗った眼鏡にちゃんと聞いておけば良かったと後悔しても後の祭り。
 思いがけず男の足取りが掴めて動揺したサンジは、ワタワタと持ち帰りのおでんを渡しただけで、詳しい話を聞くこともなく帰してしまった。
 どの道たかだか顔見知りでしかないおでん屋が込み入った話など訊けるわけもなかったが、

(二ヶ月…二ヶ月以上も病院に捕まってるって、そんなのかなり重病だろ…)

気付いた途端、どうしようもなく不安になる。
 会えなかった間のそれとは比べ物にならない位の焦燥感がいきなりサンジの胸に溢れ出した。

(どうする)


会いに行きたい。
アイツが来れないのなら、俺が行きたい―――でも、どこに、どうやって?


「―――兄ちゃん。兄ちゃん!」
「…あ」
「どうしたよ急にぼんやりして。鍋、噴いてるんじゃねーか?」
「!ヤベッ」

客の指摘で振り向いた先では湯煎用の燗鍋からぐらぐら沸騰しきっており、鍋の縁からはお湯が溢れ落ちている。
 サンジは慌てて鍋を下ろそうと素手で取っ手を柄んでしまい、「…うあちちッ!」と己の耳たぶを焼いた指先で摘んだ。
 自然手から離れた鍋は重力に従い、ばしゃあっと小気味良い音を立てて地面にひっくり返る。

「っだあああっ!」

間一髪飛び上がって熱湯の飛沫を避けたサンジだが、勢いがつきすぎて今度は屋台の天井からぶら提げた白熱灯にぶつかった。
 アタタタ、としこたまぶつけた頭の天辺を両手で押さえつつ蹲ると、一部始終を見守っていた客たちがどっと笑う。

「おいおいどうした、なんか調子悪いんじゃねェか?」
「兄ちゃん今日はヘンだぜ」
「っちち…、―――すまねぇ。湯、被ってねェよな?」

どうにか平静を装いカウンターに陣取る客達を案じるが、幸い被害は自分の足元だけで済んだようで、サンジはほっと胸を撫で下ろした。

「―――悪ィなオッサン達。侘びにゃならねェが、つけなおすからよ。俺の奢りで一杯やってくれや」

思わぬ失態に照れを隠しながらそう言うと、パチパチと大仰な拍手が上がった。
 サンジは気を取り直して燗鍋を拾い上げると、据え付けの簡易水道でさっと洗い、再び鍋を火にかけた。幾らなんでも料理中に上の空では客に失礼だと脳裏に浮かぶ緑頭をムリヤリ押し込める。
 ひいふうみいと客を数えつつ人数分の銚子を用意していると、端に腰掛けた壮年の男が、「いかんいかん」と首を横に振った。

「兄ちゃん、俺ァいいや」
「…どうした?あァ、そういや禁酒中だっけな。悪ィ悪ィ」

酒好きが高じた男はつい先日、とうとう肝臓をやられたらしい。それでも仕事帰りにはたびたび店に寄ってくれる貴重な上客だ。因みに金払いは良くはない。
 サンジは小皿にタマゴと竹輪をよそうと、すっと男に差し出した。男は軽く頭を下げてほかほかのそれにかぶりつきながら「そういえば」と隣席に向かい喋りだした。

「ちょいと前まで、若い兄ちゃんが良く出入りしてたろ。ガタイのいい、緑色の」
「…あの目付きの悪いアイツか?」
「おうそれだ。あの兄ちゃんなあ、なんか大怪我して、死に掛けたらしいぞ」
「アァ?なんだいそりゃ」
「イヤこないだ、嫁に言われて検査入院ちゅうモンに行ったらよ、偶然それがあの兄ちゃんと同じ病院で」
「―――オッサン!」

ダン!と男の前におでんが山と詰まれた大皿が置かれる。

「その病院、なんてとこだ」

唖然とする男の目に、血相を変えたおでん屋が映った。




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 (2003.07.29)

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