春、間近 12 |
12 自己嫌悪 渾身の力を込めて打ち込まれた拳はサンジの耳を掠めてフローリングを激しく打擲した。 床に向け(振動で部屋が揺れた)と思うほど気合の篭った一撃を見舞った男は、そのままバタリと糸が切れたようにサンジの上に倒れこむ。 「…ゾロ!?」 さては脳卒中でも起こしたかとサンジは思わず首を上げて緑色の短髪の天辺を凝視した。まだ若いが考えてみれば事故ではしこたま後頭部をぶつけたと聞いている。 キレたついでに違うものも一緒に切れちまったのかも知れない、と慌てて剥き出しの肩を揺すって錘のように圧し掛かった男に呼びかけた。 「オイしっかりしろ!今救急…」 「呼ぶな」 ボソリと返された返事に、すっかり慌てていたおでん屋がほっと息をつく。 同時に、ぎゅっと抱きすくめられた。 先ほどまでとは違う、子どもが母親に甘えるような仕草で胸元に顔を埋めてくる。 「ゾロ…?」 「黙ってろ。…反省中だ」 乱暴ないいようだが棘はない。筋肉の塊みたいな男の全体重を預けられて、正直かなり苦しかったがおでん屋は黙って好きなようにさせた。 しばらくしてゾロはぐりぐりと額をサンジの胸に押し付けて、やがて未練を振り切るようにぐっと首を反らしてサンジを見た。 上げた顔からは先ほどまでの凶悪さはすっかりナリを潜めている。 いつも通りの飄々とした男の顔だ。 「すまなかった。情けねぇところを見せちまった」 あれだけ激昂して勝手に盛り上がっていたのが嘘のような態度で、ゾロはぺこりと頭を下げて詫びの言葉を口にする。 答えに窮したサンジの先手を取るように、ゾロはつい、と腕を伸ばして彼の髪に触れた。すっかり乱してしまったそれを梳こうとし、慌てて手を引く。 その拍子にぽたりと赤いものがサンジの頬に落ち、おでん屋はぎょっと目を見開いた。 思い切り良く殴りつけたらしい指の付け根は、彼の流した血で真っ赤に染まっている。 「テメェそれ…!」 「悪ィ。また汚したな」 ゾロは反対側の甲でごしごしとサンジの頬を擦り、それから改めてサンジの金糸を撫でた。 冷え切った髪の先にまで熱が伝わるような、優しい触り方で。 きれいに整えてやってからきっちり分けた額に唇を寄せたが、触れる前におでん屋の体がかすかに身じろぐのに気づき、苦笑しながらそれを止める。 かわりにごちん、と額をぶつけ、 「頭冷やしてくる。…帰れるか?」 帰るか、とも帰れ、とも違う言葉に、サンジはこくりと頷いた。 多分これ以上ここに居ないほうがいいのだ。 ゾロはゆっくりサンジの上から身を起こし、膝まで下ろした彼のズボンと下着を引っ張り上げた。ファスナーを上げて、きっちりボタンまで留めてやる。 それから無言で立ち上がり、床に散乱した衣類の中からTシャツとセーターを探してサンジの上に落とす。サンジは慌てて上体を起こして皺だらけになったそれをぎゅっと抱きしめた。 「―――本当に、すまなかった」 ふいっと俯いてしまったおでん屋の首筋には、ゾロが噛み付いた痕がくっきりと残っている。 なんともやるせない思いで丸い金髪頭をぽんぽんと軽く叩き、ゾロは素っ裸のままおでん屋に背中を向けた。このまま彼を見ていたらまた襲い掛からないでいる自信がない。 それきり振り返ることもせず大股でバスルームへと向かう男をサンジは複雑な気持ちで見送り、バタンとドアが閉まる音に、はーっと長く息をついた。 血だらけの手で水色のシールが貼られたコックを捻ると、頭の上からざばーっと勢いよく冷水が降りかかった。 文字通り頭を冷やすゾロである。 (…ヤバかった) もう少しで、あれをまた泣かせるところだった。 嫉妬に目が眩んで大切なものをブチ壊すところだった。 退院して彼を抱ける日が来たら、それまでの男なぞ吹き飛ぶくらいに愛してやると勢い込んでいた己はなんだったのか、と自分の短慮に呆れる。 高校を卒業すると同時に自分一人の力で生活を始めてから何年も過ぎた。会社ではそれなりの業績を上げ部下と呼べる人間も出来、すっかり落ち着いた気分でいたゾロは、自分がいかに幼稚な人間だったかを最悪な形で思い知らされた。 寛容な振りをしながら、いつでも本当は彼を―――見下していたのだ。 好きにしろ、と身を投げ出してきたおでん屋が何を考えていたのかは解らないが。 (抱き合うために、か) そんな気持ちで居たことなど知らず、嫌がる体を押さえつけて無理矢理に逐情させてしまった。 初めてではなくとも…いや初心者ではないからこそ、合意の得られない行為は彼のプライドを傷つけただろう。 我を忘れるほど惚れた相手。 だからこそ大事にしなければいけなかったのに。 (もっと、でけぇ男にならねぇと) 彼の全てをそのまま受け止めるだけの度量がないうちは、触れることすら許されぬと思った。 今回はなんとかギリギリで理性が働いてくれたが、情けないことにゾロ自身はあの後もギンギンに勃起したままだ。 枯れてもいないが盛っているつもりもなかったというのに、おでん屋の真っ白な裸身を思い出すだけで、新たな熱がそこに流れ込んでいくのだからどうしようもない。 充分以上に鍛えているとは雖もこの気候にこの水温はかなり堪えたが、火照った体を鎮めるのには丁度良いと、ゾロは凍りつくような水流に身を打たせ続けた。 しばらくぼんやりその場に座り込んでいたサンジだが、ゾロが出てきそうにないと踏むと、小さくため息をつきながら身支度を整えた。 腹や股間がべとべとして気持ちが悪いが、この状況では風呂を借りるわけにもいかないだろう。 組敷かれたときぶつけた背中や噛み付かれた首筋や、体の節々がずきんと痛む。 けれどまあもっと若い頃はそれなりにやんちゃだったサンジだから、あの程度の乱暴はガキの小競り合いくらいにも感じない。 さすがにケツに指を突っ込まれる経験なんてのは初めてだったが。 (って、もっとデケェのをぶち込まれるハズだったんだよなァ…) なんだかひどく疲れたと思いながら、ここを訪れたときと同じようにコートを羽織ってリュックを背負い部屋を後にした。 玄関先にはゾロから渡された花束が放置されたままだったが、持って帰る気には到底なれなかった。 エレベーターの中で、壁に凭れながらサンジは散々に終わった初体験(…)について考えを巡らせる。 以前からゾロがどうにも自分に対しておかしな誤解をしているようだと感じてはいたが、まさかあそこまで思いつめていたとは。 勝手に勘違いして、勝手に怒って、勝手に抱こうとした、呆れるしかない男のことを思うとさすがにへたれる。 けれど――― (ビビっちまった) 本当に呆れるのは自分にだ。 激昂した男に暗い負の感情をぶつけられて、咄嗟にどうしていいのか解らなくなったのだから呆れてしまう。 ゾロの口から漏れた侮蔑の言葉には確かに動けなくなるほどのショックを受けた。 反対に怒って然るべきところなのに、ゾロをここまで変えるほど苦しめていたのかとそのときは抵抗する気力すら湧かなかった。 抵抗して、逃げて、それで終わりになる可能性が怖かったからかもしれない。 (いやそうじゃねェな、俺が怖かったのは) 首筋に噛み付かれた瞬間、何をされても逆らえないと本能的に思ってしまったこと。 体に加えられる暴力などなんて事はない。サンジが怖かったのは、全て許してしまえるほどあの男に惹かれてしまった自分だ。 結局寸前でゾロは我に返って事なきを得たわけだが、力いっぱい蹴り飛ばしてでもきちんと誤解を解くべきだったと思う。 そうしなかったからゾロは勝手に納得して、勝手に手を引いてしまった。 あの男があんな風に落ち込むところは見たくなかった。 (上手く…行かねェもんだな) 冷静に対処したつもりが、却って彼を傷つけたのだ。 エレベーターホールを抜け、エントランスに見つけた人影にサンジはむっと眉を顰めた。 しょんぼりと肩を落とした男が、大きな花束を下げて立っている。 「テメ…まだ何か用か」 「サンジさん」 ギンはサンジの姿を認めると、薄く笑って深々と頭を下げた。 |
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(2004.06.17) |
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