春、間近 7 |
7 ご来店 身を休める間もなくスーツに着替えて出社したゾロを迎えたのは、同僚の暖かい拍手と花束。 平日だというのに部署のほぼ全員が顔を揃えてのささやかな退院祝いに、嬉しさよりもおかしな具合の擽ったさを覚えてしまったが、久々のオフィスの雑然とした雰囲気はやはり心地良い。 ただし顔だけ見せて帰るつもりが、うっかり山積みになった自分の机に気づいてしまったのは失敗だった。 大体からして建築に携わるものは工期に入れば無頓着になるものだから、元からお世辞にも片付いているとは言えない場所ではあったけれど、青焼き図面はともかく外壁サンプルやら塗装の剥げた装飾部品やら、果てはペンキ缶と塗りかけの刷毛までが放置されているとあっては見過ごすことも出来ぬ。 挨拶もそこそこに片づけを始め、そのままごく自然に来期からの工事やら事故のため途中で投げ出した形になった現場の進行を確認し始めたゾロを、周囲は「それでこそ」と半ば呆れつつも歓迎した。 長い欠勤だったがこの分ならスムーズに復帰出来そうだ。 (なんだかんだでこの時間か) 結局定時過ぎても会社から引き揚げずにいた仕事人間は、以前と同じ時間帯の急行電車にギリギリで乗り込んだ。 車で送るという後輩の申し出を断ったのは、その後帰宅するコビーの手間を考えたのもあったが、渋滞に引っかかってこれ以上おでん屋に会う時間を減らすわけには行かないと考えたからでもある。 何せ今夜は――― (絶対逃がさねェ) ぐっと大きな拳を握り締めてゾロは誓いを新たにした。 昨日のおでん屋のおかしな態度、あれはどうも自分相手に警戒してのことらしいとゾロは踏んでいる。 再会してから日数的にはまだ僅か。その間、ゾロは自分の気持ちを一切隠すことなくサンジに伝えてきた。相手はそんな明け透けなゾロの態度に今ひとつ戸惑っていたようだが、嫌がってはいなかった…筈だ。 ココに来て何故いきなりそうなってしまったのかはゾロにもさっぱり解らないが、だからといって今更あれに対して手控えることなぞ出来るわけもない。 怪しげな性癖を持っているらしいサンジだから、一刻も早く余所見出来ないようしっかり自分のものにしてしまいたいという焦りは確かにある。 だがそれ以上に、そんなことを抜きにしてもあれが欲しい。 想いが通じてからのおでん屋は、ゾロがそれまで知っていた以上にいろんな表情を見せるようになった。 いらぬちょっかいに不貞腐れてつんと尖らせた唇、キスをするときの恥らうように揺れる瞳、終わったあとのはにかんだ笑顔。 客として屋台に座っていただけでは決して見られなかったそれらは、陳腐なようだが大変に可愛らしく、なんというかもうぐわあッと襲い掛かって押し倒して裸に剥いて色々したくなる自分を抑えるのにゾロは大変な苦労を強いられてきたのだ。 しかし自分も相手もそんな見境のない年ではない。 だからせめて、病室でイタすことはなんとか理性を総動員させて我慢してきた。 「退院したら」はおでん屋への宣言でもあったが、同時に己に科した戒めでもあって―――だからこそ、もう。 (…まァそれも、今夜限りだ) あーしてこーして弄りまくってめちゃくちゃ鳴かす。 職場で貰った可愛らしくも大きな花束を引っさげつつ不埒な妄想に耽るゾロである。 帰宅ラッシュに揺れる車窓に映った男の顔は、凶悪すぎてちょっと見られたもんではなかったらしい。 背後に据え付けた時計をちらちら眺めては、ふう、と溜息を落とす。 あれほど待ち望んだ恋人の退院をこんなもやもやした気分で迎えるとは思わなかったおでん屋は、手持ち無沙汰に菜箸でおでん鍋を掻き混ぜながら、それでもゾロを待っていた。 何事もなければあの男は今日無事に病院を出たはずだ。 会社に挨拶を済ませる以外は特に用事もないと言っていたから、てっきり開店早々押しかけられると思っていたサンジは少し拍子抜けした格好だが、胸の中ではなんとも説明のつけようのない感情が渦巻いたままで。 早く会いたいような会いたくないような、そんな微妙なイライラを、目下おでん鍋にぶつけるという料理人にあるまじき振る舞いに及んでしまっている。 (来るならとっとと来やがれってんだクソ野郎) 昨日二度目に訪れたゾロの部屋は、午後まるごとを潰しての努力の甲斐あって見違えるように広くキレイになった。 大雪はやんだものの天候はまだ不安定だから布団を干すのは諦めたが、それなりに満足のいく出来に、自分の都合から退院に付き添えなかった申し訳なさみたいなものは少し薄れたように思う。 そのくせ同時に(やっぱり出すぎた真似だったろうか)とも思うサンジは、実は結構イッパイイッパイでその時を待っている。 これからどうなるのか解らない不安と、それからやっぱり僅かばかりの―――期待を込めて。 (なるようになれ、だ) あれからまた一晩考えて出したサンジの結論は、結局そこに落ち着いた。 どうにも受動的ではあるが、どうしたって自分があの男に惹かれているのは事実だ。 熱心すぎる求愛が嬉しくないわけではないし、どうせいつか『そう』なるのならば、少しばかり早まっても問題は…サンジ的には首を傾げてしまうものの、ないような気もする。 もう一度眺めた時計の針は、やがて二十時を刻もうとしている。 いつもあの男が暖簾をくぐる時間だと思った瞬間、反射的にサンジは食材を載せた丸イスを振り返った。 三ヶ月近く誰にも使わせなかった小さな椅子を、久しぶりに本来の用途に使用するためにさかさかと布巾で拭き上げる。 「―――兄ちゃん落ち着かねェなあ」 カウンターで放置気味だった常連は忙しない店主の態度から何かを感じ取ったらしい。 サンジはあー、と返しながら、 「…もしかしたら今夜は早仕舞いすっかも知んねェ」 「なんだ、デートかい?」 そういうわけじゃ、と答えようとしたおでん屋を別の酔客が阻む。 「おいおい、兄ちゃんには立派な彼氏がいんだろうが。冗談でもンなこと言ったら、ミドリの兄ちゃんにブッコロされちまうぞ?」 「おうおう、ありゃあ関白っぽいからなぁ」 かつて熱烈な告白劇を間近で目にした常連たちは、ここしばらくですっかりおでん屋を揶揄する悪癖がついたようだ。 サンジの思惑も知らずにどっと笑った身勝手な常連たちは、次いでいつもは照れてキレるだけの青年が目の前で憐れなほど眉尻を下げて赤面しているのにぎょっと目を剥いた。 「あれなんだい、まさか」 「………」 「帰ってくるのか?!」 素直にもこくりと頷いた青年にすっかり仲人気分の常連たちが「おおお」と歓声を上げ、おでん屋がさらにいたたまれなくなったところでタイミング良くするりと暖簾が上がる。 「…ェラッシャーイ!」 「悪ィな、遅くなった」 やけっぱちで上げたおでん屋の大声に苦笑しながら定位置の丸イスを引いた男に、うっかり気を抜いてしまっていたサンジはそれはもうがちがちに固まった。 |
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(2004.05.30) |
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