ゆく年、くる年。 2





 そろそろ除夜の鐘が鳴る頃だろうかと見上げた時計は、驚くことにまだ十一時を回ったばかりだった。
 この分ならギリギリで、ゾロが本格的に寝入る前に会えるかも知れない。
せめて「あけましておめでとう」くらいは最初に告げたかったサンジはほっと胸を撫で下ろした。どうにも寝汚い幼馴染には一度熟睡してしまうと嵐が来ようとも起きないという、社会人にあるまじき悪癖があるのだ。
 果ての見えなかった仕事はコック全員が必死になって働いたおかげで予想よりずっと早く片付いた。
配達用包装もバッチリ仕上がった完成品は番地順にフロアテーブルに並べられ、かなり壮観だ。
 早朝には配送を任せた業者が各戸にお届けしてくれる筈。

(なんとかなるもんだなァ)

 半日ぶりの紫煙を燻らせながら満足そうにニンマリする顔にはハードワークが祟って疲労の色が濃く滲んでいるが、あとは片づけさえ終えてしまえば正月休みの始まりである。
気がかりだった恋人との逢瀬もなんとかなりそうで、さっきまでの懊悩が薄まったサンジの機嫌は急上昇だ。

(初日の出は拝みに行けっかも。あーでも、あの寝坊助が朝ッパラからクルマ出したりするワケねェか)

 同じ新年初頭の儀式なら寧ろ姫初めを選ぶ男なのを思い出し、サンジはちょっとばかり頬を赤らめた。

(ご無沙汰させちまったし、まァしょうがねェ)

 恩着せがましくそんなことを思うが、ご無沙汰で人肌が恋しいのはサンジも同じ。
とっとと帰っていちゃいちゃすべく、サンジは気合を入れなおして最後のヒト仕事、重箱の数えなおしに取りかかった。

「うし全部揃ってンな。ケムリンの平台もOK、っと」
「サンジ、オーナーが呼んでるぞ」
「ってまさか、いまさら追加とかじゃねェだろうな」

 勘弁してくれよと思いながら戻った厨房はしかしいつの間にやら粗方の整理が進んでいて、思わずバンザイしたくなる。
御節作りの前に煤払いやら年始に向けた申し送りやらを済ませたのをどうにも変則的に感じていたサンジだが、大晦日の手間を先取りしたおかげで普段より楽に済んだようだ。
 今はもう何も載せられていないぴかぴかのステン台は、静かに年明けの営業を待つだけとなっている。
頑張りまくったスタッフも半数以下に減り、既にコックコートを纏っているのはサンジ一人っきり。
 我儘オーナーに付き合されたバラティエもようやく御用納めな雰囲気を迎えたようだ。

「…あれ?」

 帰り支度を済ませた連中の中に呼びつけた張本人、いつだって最後まで居残りたがる頑固な年寄りの姿を見つけられず、サンジははて?とちんまり生やした顎鬚を撫でた。

「おいクソジジイはどこ行きやが」
「店じゃオーナーと呼べって、何度言わせりゃ気が済むんだ」
「お」

 厨房のそのまた奥、自宅へと続くドアからのっそり現れたゼフはさも呆れた風にため息を落とし、

「案の定ちんたらしてやがったな。未成年者はもう上がれ、後はなんとかなる」
「マジ?おつかれさんっした!」

言うが早いかさっさとコートのボタンに手を掛けた孫に「ほれ」と角ばった風呂敷包みを差し出した。

「?」
「俺ぁ商工会の連中と飲んでくる。年越しと新年は隣に混ぜてもらうなり何なり、好きにしろ」

 小振りながらずしりと思い荷物は隣家用のおせち料理だろう。単純に出来ている孫はぱあっと表情を輝かせた。
口調は素っ気無くとも底抜けに孫バカな祖父が気を利かせてくれたのだとは微塵にも思っていないその様子。
 身内相手にぬけぬけと一丁前な敵愾心を向けてくる酒屋の跡取りを嫌っているわけではないにせよ、だからと言って将来的にひ孫の顔が見たくないわけでは決してないゼフとしては非常に微妙な気分なのだが、いい年してお隣に入り浸りな自分が周囲からどんな目で見られているかなんてちっとも斟酌していない青年は嬉しげにお重を受け取った。

「サンキュークソジジイ!そんじゃ良いお年を!」
「…おい着替えくれェ済ませて行け!」

 くるりと踵を返して外に繋がる通用口から駆け出した背中に掛けた言葉は、一足遅く閉じられたドアに遮られる。
苦虫を噛み潰したような顔になったゼフに居残りの古株コックたちはクスクスと含み笑いを漏らし、オーナーからぎろりと睨まれ慌てて目を逸らした。
 ゼフは咳払いで祖父からオーナーへと頭を切り替える。

「明けて六日から通常営業だ。一年ご苦労さん。良いお年を」
「おつかれさんでした!」

 大仕事をやり遂げてすっきりした仲間たちは互いの労をねぎらい、今年も大繁盛だったバラティエの一年を締め括った。







 祖父の用意した御節を抱えて隣家を訪れたサンジは、想像とは違う様子にあれ?と首を傾げた。
 てっきり一階でまったりしてると思って、普段の深夜とは別の正規ルート…つまり自室の窓ではなく勝手口兼用の玄関からずかずかと御邪魔したのだが、室内灯こそついているものの、しーんと静まり返って人の気配もない。

(風呂にでも入ってんのか)

 夕方サンジが食事を並べたコタツの上にはキツネマークのついた丼がふたつ、食べ終わったそのまま放置されていて、

(…もうちょっと待っててくれたら俺が作ってやったのに)

腹を減らした幼馴染のためにもうヒト働きするつもりだったサンジを幾分ガッカリさせた。
 味覚的にどうかと思われる駅前の蕎麦屋からわざわざ取った店屋物は、間違いなく年越し蕎麦だろう。
 少々新年にズレこんでもマトモなものを食べさせてやりたかったが、考えてみればいつ仕事から解放されるとも知れなかったわけだから仕方がない。
 グル眉の端っこを下げてしおしおと洗い物を下げる姿は、不法侵入にも拘らず傍から見れば仕事を終えて亭主の待つわが家に帰宅した兼業主婦のようだったがそれはさておき。

(ちっと待て、二杯だって?)

 亭主ひとりにしては多い皿数に、サンジはまたしても首を捻る。サンジに比べたら大食いの範疇に属するゾロだが、夜食にこの量はいただけない。

(晩飯が早すぎたか…いや違うな)

 良く見ればきれいに空っぽだと思ったうちの片方は、少々ではあるが黒っぽい出汁が残っている。
 麺類は汁まで全部飲み干してこそ漢だ!料理人への礼儀だ!という強引なサンジの主張に幼い頃から従い慣れたゾロならば、いかに微妙な味わいであっても余さず飲み干したはず。

(え、でもロビンちゃんはお仕事で長期出張だぜ)

 クールな長女は店を弟に任せて海外へ飛び立ってしまった。ロビンは働き盛りの独身女性代表みたいな仕事の鬼で、最新ノーパを携えてはあちらこちらへと忙しい。

「次に会うのはひょっとしたら成人式かしら?先におめでとうを言っておくわ、コックさん」

 サンジがゾロひいてはロビン、その父親の食事を用意するようになってから、彼女はふざけ半分にサンジを「コックさん」と呼ぶ。
 弟のほうが揶揄い気味に「クソコック」と呼ばわるのはムカつくこと甚だしいけれど、小さな頃から将来の夢は世界一の天才コック、だったサンジだから、おふざけでもそう呼ばれるのがとても嬉しかった。
 お祝いの言葉と共に、ゾロとは違う意味で大好きな隣のおねーさんがにっこり微笑んでホッぺにキスしてくれたのはラッキーだったがしかし、メロメロになった現場を嫉妬深い恋人に目撃されたのは不運だった。
 クリスマスの準備でクタクタだった体を更にクタクタにされたのは記憶に新しい。

(っつかソレが今年の最後だったっけなあ)

 何日ヤってねーんだ、と思わず指折り数えそうになったサンジは「いや待てそーじゃねェだろ俺」と自分にツッコミを入れた。

「ふむ」

 大晦日の、おまけに夜半ともなれば、アットホームがウリのここ大通り商店街とあれど余ッ程深いお付き合いでもない限り、他人の家を訪ねる酔狂な人間は少ないだろう。
 エロ親父だが貞操観念だけはがっちんがっちんに硬いゾロが深いお付き合いをしているのはサンジだけだし、とすると考えられる来客はひとりだけだ。

「おじさん帰ってきたのか!」

 ゾロが早起きするよりずっと珍しい『事態』に思い当たって、サンジはあちゃーと渋面を作った。
 ゾロの実の父であるジュラキュール・ミホークさんは曲がりなりにも隣家の主であるからして、本来ならば来客と呼ぶには相応しくない。
 しかし放浪癖のある彼はちっとも家にいつかず、奥さん子供をほったらかしては何ヶ月も家を留守にするような男だった。夫の身勝手にいい加減ブチ切れた奥さん…ゾロの母親が二人の子供を置いて実家に帰ったのは、ゾロとサンジふたりともがまだ小学生だった時分である。
 やがて正式に離婚が決まり、ロビンの親権は父親に、ゾロの親権は母親に移った。
当然のことながら母親について大通り町を離れるはずだったゾロは、けれど頑なにそれを拒んだ。
 詳しく聞くのも躊躇われたからゾロの口からその理由を聞いたことはない。
ただ同時に父方の姓を名乗ることもやめたから、小僧っこだった当時からゾロの中に父親への反発心は腐るほどあった、ということだろう。

(…いまでも態度すげェ悪ィし)

 跡取りとして甲斐甲斐しく店を切り盛りしてる割に、たまに戻る店主ミホークへのゾロの視線は厳しすぎるものがある。
 身内に対して口が悪くなるのはサンジも同様だが、ゾロの口調はいっそ他人行儀で、うっかり同席なんかすると居た堪れないものを感じるくらいなのだ。
 あからさまに不機嫌になるゾロとは裏腹、ミホークのほうは息子に対して必要以上なほどフレンドリーに接しているのがまたなんともキツイ。

(さぞかし荒れてんだろうな)

 サンジはてきぱきと汚れたキッチンを片付け、着たまんまだったコックコートの前で濡れた両手を拭いた。
 ハァ、と溜息をついて、コドモ部屋のある二階へと向かう。
一段踏むごとにみしみしと軋む階段を上がる音が聞こえていないワケでもなかろうに、二階にいるであろう無精者な家人は頓着する様子もない。
 玄関の鍵と同様、悪さをしているとき以外いつでも開けっ放しなドアが今日に限ってぴたりと閉じられているのはゾロが外界とのコンタクトを拒否している証拠で、サンジはやれやれと思いながら小さくコン、とゾロを囲う膜をノックした。

「ただいま」

 返事を待たずにドアを開け、いつも通りの顔を取り繕う。

「………」

 対するゾロは無言のままベッドにうつ伏せ、布団も被らぬ背中はなんとも言いようのない複雑な空気を漂わせていた。
 愛想のかけらもない姿は朝から晩まで働きづめだったサンジの疲労を倍加させたが、起きてるくせしてぴくりとも動かないところを見るに相手はもっと疲れているらしい。
 サンジはずかずかと遠慮なしに奥まで入って、ひょいとベッドに腰を降ろした。
いつもなら頼まなくても分厚い胸板で迎えてくれるゾロのかわりに、薄っぺらい安物マットがぼわん、と撓んでサンジの体重を受け止める。

「………」
「今日狙われたのは顔か」
「………」

 ズバリと指摘されて観念したゾロは、ぐぎぎ、といびつな音を立てて、全てお見通しな幼馴染へ首を向けた。

「ははははははははは」
「うるせェ笑うな」

 決まり悪そうに漏らした唇の端っこは、ざっくり切れて赤い血を滲ませている。
ついでに言えば傷口からそのまま左の頬骨あたりまでがハムスターの頬袋みたいにぶくっと腫れ上がっていて、ちょっと目を離した隙に格段と上がった恋人のオトコマエっぷりにサンジは腹を抱えて笑った。

「面はどーした面は。体裁なんざお構いなしなてめェらはともかく、あのクソ真面目なコウシロウさんが防具ナシの立ち合いを許すってそりゃどういう気の迷いだよ?」
「道場は今朝が終い稽古で、師匠はイナカに帰った」

 ゾロがまだ、稀有な剣士として父親を尊敬していた頃から通っている剣道場は、人格者として慕われるコウシロウが私塾のかたわら趣味で教えているような小さな道場である。

(ち、使えねェ)

 彼がいれば上手いこと親子喧嘩の仲裁も出来ただろうにと、サンジは筋違いは承知の上で呑気に里帰りなんかしてるコウシロウを恨んだ。

「ココじゃ狭ェってんでしょうがねぇから公園まで行ったらスモーカーに捕まって、そのまま本署まで引っ張られて」
「ふむ」
「道場まるごと貸してくれたのは有難ェが、あっこは親父のファンクラブみてぇなもんだから、あっという間に詰めてたお廻りがわらわら集まって。うぜェったらなかった」

 イイ年してトンチキな格好でフラフラしてる謎の人物ではあるが、人は見掛けに寄らぬもの。
 ミホークは剣道界ではいまだ無敗の世界チャンプだ。地元のよしみで、興が向けば署内の道場において指導を請け負うこともある。
 幼馴染の手酷いやられっぷりから、彼が何も着けずに勝負に臨んだのは想像に固くなかった。空身での対戦が許されたのはミホークの顔と実績があってこそだろう。

「そら世界一と去年のインハイ優勝者が半年振りの対決じゃ、ギャラリーだって盛り上がるってもんだ」
「…三合しか合わせてねェぞ」

 他人事のようにゾロはそう嘯いたが、大勢の前でこてんぱんに打ち据えられ内心ハラワタが煮えくり返っているのは間違いない。

(―――他の連中なら構えた竹刀を降ろすヒマもねェよ)

 咄嗟にそう感じたが、告げても何の慰めにもならないのでサンジは口を噤んだ。
幼馴染の腕前が常軌を逸したレベルなのは隣で見てきたサンジが一番良く知っている。
 同時に、更にはるかその上を行く父親の超人的な技量も。
惚れた欲目でなく、この界隈で三合をミホークと打ち合えるのはゾロだけだろうが負けは負け。
 むしろ詰られ揶揄われて、より闘志を燃やすほうがゾロに相応しい。

「大通り町は平和の代表みてェな町だからなー。ポリの皆さんもイイ暇つぶしにゃなったんじゃね?」

 口にしながら(それにしたって仮にもご町内の秩序と安全を守る警察が私闘の片棒を担ぐってのはどうなんだ)とサンジは祭り好き体質な公務員たちにこっそり呆れていたが、木刀を引提げて薄暗い公園で対峙していた二人を偶然発見し、存分に暴れる場所を用意してやったスモーカーにしてみたら礼を言って欲しいところだ。
 本来ならその場で職務質問→任意同行を言い渡されてもおかしくはなかったのだから。

「ま、親子喧嘩が一年の締め括りたァ―――てめェらしいっちゃてめェらしいよ」
「言ってろ」

 撫でるように頭頂へと伸ばされた指を鬱陶しげに掻い潜り、上半身を起こしたゾロは逆にサンジの手首を奪ってぐいと痩身を引き寄せた。

「わっ」

 よろめいて体勢を崩した青年をすかさず抱きしめて、真ん丸な金髪頭をがしがし乱暴にかき回してやる。

「何しやがる!」
「…おかえり」

 不意打ちで現れた不良中年に感けるあまり、ようやく長い間の肉体労働から解放された恋人のことをスッカリ忘れていたことをゾロは今更になって思い出したらしい。
 サンジは一瞬きょとんと目を見開き、それから「ん」と唇を突き出した。ゾロは苦笑して、促されるままそこへ自分の唇をかるく重ねてやる。
 濡れた舌先が離れ際ぺろっと傷口を舐めて、塞がりかけた場所に唾液が沁みたゾロは大袈裟に痛がってみせた。
 サンジは面白そうに笑って、

「そんなんで良くあっちィ蕎麦食えたよなァ。せめて盛りソバにしときゃ良かったのに」
「ありゃあクソ親父が勝手に注文したんだ。ソバがねェと年が越せないだのなんだの、ガキじゃあるめぇしよ」

付き合わされたこっちはイイ迷惑だったと吐き捨てる恋人を、

「まあまあ」

と宥める。

「…今度はいつまで居るんだろうな。夏は二週間だっけか」
「そんくれぇは居たか。まあ別にどうでも」
「嘘つきやがれ。これからしばらくはチャンバラに明け暮れんだろーがよてめェはよ」

 前回のミホーク帰宅時、何度負けても懲りずに歯向かってはその都度きれいにぶっ飛ばされてたのを指摘されて、ゾロはうっと詰まった。

「俺ァ別にあのヒトのこと、嫌ってるってワケじゃねェんだけど…てめェおじさんが絡むと見境いなくなっちまうし、暴れ疲れたとかってすぐ寝ちまうし」

なんか悔しいんだよなーと零すサンジの頭を、さりげなく撫でて誤魔化していたら、

(うお)

いつもさらさら指の間をすり抜ける彼の髪が、今夜に限ってぺとっと手のひらに絡みついてきてゾロは驚いた。
 よくよく眺めたらトナリの戦闘服を着たままだ。
このキレイ好きな男が風呂にも入らず仕事を終えたその足で自分のところに真っ直ぐ帰ってきたのかと思えば、それだけで何やらくるものがある。
 得意になっていい気分で触り続けていると、

「あ」

腕の中に納まったサンジが、不意に視線をちらりと窓のほうへ動かした。

「なんだ?」

 問いかけると「しっ」と人差し指を口元に立てられ、言われるままゾロは黙って耳を澄ませる。
 いつ頃から打ち始めたのか定かでないが、静かになった途端、部屋の中に除夜の鐘の音がごおんと響きはじめた。

「へぇ。聞こえるもんだな」
「けど、音は小せェかなやっぱり」

 まだ下の毛も生えてない小学生だった頃は、この時間にはもうぐっすり寝ていたような気がする。
 中学に上がってからはチャリを飛ばして神社まで行って、鐘撞堂に並んで一回ずつ撞かせてもらったりもした。
 やがて高校に進む頃にはそれも面倒になって、つけっぱなしの国営放送で済ませるようになり。
 変わらないのは一つだけだ。

「あけましておめでとうございます」
「本年もよろしくお願い申し上げます」

 最後に聞こえた鐘の音から三分ばかり待ち、それ以上はもう鳴らないのを確認してから二人は畏まって挨拶した。

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 (2009/05/29)

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